今回の加筆はオレンジ色部分、「付加的後接メロディーの草分け、吉田拓郎」です。
本稿では日本のポップスの規範を確立したサウンドの分析と、その変遷に重点をおいている。従って、興味深い音であっても、一過性のもの、奇をてらっただけのもの、後年になって大衆化されなかった音には触れない。通向けの評論と違い、ヒットしたことも評価のひとつなのである。
* 日本のオリジナルポップス黎明期
1966年2月、筆者が高校入試を控えた紅顔の美少年の頃、画期的な曲が現れた。
ジャッキー吉川とブルーコメッツの"青い瞳(英語盤)"(橋本淳作詞、井上忠夫作曲)である。この曲は日本における弾きながら歌うバンド曲の原型とされている。(この曲の詳細な分析は本ホームページの別稿に譲る。)が、それ以前に歌謡曲の中で、洋楽サウンドへの志向が見られた曲がいくつかある。
第二次世界大戦敗戦直後の昭和20年代(1945年〜1954年)は復興に向かって立ち上がる人々の気持ちを癒すため、明るい歌が多かったのはよく知られたことである。
その代表とされるのが「りんごの唄」(万城目正作詞、仁木他喜雄作曲、並木路子、霧島昇・歌)
や「青い山脈」であり、「東京ブギウギ」である。
優等生的な明るい歌とは対照的に、「東京ブギウギ」(鈴木勝作詞、服部良一作曲)はアメリカ文化をうまく吸収した曲で、その後の日本のポップスにおける飽くなき洋楽化への試みの端緒である。
この曲は同時期の歌謡曲と比較してかなりのリズム重視である。この頃の録音は当然"一発"録音のためドラムはかなりのOFFであり、一定のビートは主にウッドベースの音によってキープされているように聞こえる。
第三音のブルーノートはサビだけに現れる。
ブルーノートとはメージャーキー(長調)において、第三音(ミ)と第七音(シ)が半音近く下がっているスケールのことである。(時には第五音(ソ)も下がることがある。)
こうした単に明るいという印象だけの曲とは一線を画す洒落た曲が1954年(昭和29年)の
「雪の降る町を」(内村直也作詞、中田喜直作曲、高英夫歌)である。
http://www.youtube.com/watch?v=tPSEGXGqE78
昭和20年代後半(1950年〜1955年)はクラシックの素養をもった歌手のヒット曲が目立ち、この曲もクラシック的歌唱であるが、曲自体は非常にポップス的である。
当時のジャズ系バラードにうまく乗るメロディーが途中で同主調(イ短調→イ長調、Am→A)に転調する部分が非常に洒落ている。
メジャー・キー(長調)になった後はところどころにノンダイヤトニック・コード(クラシック和声学では準固有和音)を入れ、2コーラス目の初めでマイナー(短調)に戻るための心の準備をしている。
そして最後に付加されたフレーズで完全にマイナーに戻ったと思わせて、最後の音だけ同主長調のAコードにして終わらせている。
心にくい演出である。
ところどころに登場する三連符メロディーも効果的である。
この曲は教科書に掲載されたことにより覚えた人が多いため、唱歌や童謡に分類されることが常で、作曲者がクラシック系の人だったこともあり、歌謡曲としては紹介されない。
しかし、元はといえば、ラジオ歌謡として発表された曲。
和製ポップス〜J-POPの垢抜けた曲作りのルーツとして、後年まで評価されるべき曲だと思う。
ただ、この伴奏は終始、歌メロをオーケストラが同じメロディーをなぞっている。当時の歌謡曲のアレンジはこれが普通だったとは言え、この点だけは残念である。
同主調への転調を持つ曲が大ヒットした例はその後もあまりない。8年後、吉永小百合/和田弘とマヒナスターズによる「寒い朝」(1962年、佐伯孝夫作詞。吉田正作編曲)が目立つ。
この曲は北風を思わせるバックのストリングスが際立っているが、基本的には当時の歌謡曲アレンジの域を脱し得ない。
伴奏アレンジの洗練化は同じ頃、中村八大、宮川泰の両名に委ねられていたと言えよう。
逆にメージャーからマイナー同主調への転調はヒット曲ではさらに使用例が少なく、渡辺美里の「サマータイム・ブルース」(1990年、渡辺美里作詞作曲、奈良部匠平編曲)が目立つ。
このタイプの転調はうまく処理されていれば、たいへん洒落たサウンドとなり、筆者の好きなパターンである。
「サマータイム・ブルース」では落ちついたサビになだれ込む際のストリングス・フレーズが秀逸で、晴天の空が一気に流れてくる雲に覆われ、一時的に陰る様子が目に見えるようである。
そもそも、1950年代(昭和25年〜34年)から1960年代(昭和35年〜)初めまでは和製の洗練されたポップスがほとんどなかった。主にアメリカンポップス〜今で言うオールディーズ〜に原詞をかなり意訳した日本語訳詞をつけて歌われる和製ポップスが大量生産された。
そういう状況下で、ジャズの経験を生かして洋楽風自家製和製POPSを創作したのは、中村八大、宮川泰の両巨頭である。
1961年の"上を向いて歩こう"(永六輔作詞、中村八大作編曲)はどういうわけか1963年に全米ヒットチャートのトップに輝く。このときは「ついに和製POPSが輸出された」と騒然となったが、サウンド的にはアメリカのビッグバンドである。歌詞の異国風味は別として、アメリカ側から見ると自国好みのサウンドが逆輸入されたわけである。サビにサブドミナントマイナー(Key:GにおけるCm)が出てくるあたりは"DIANA"(1958年,Paul Anka)に見られるのと同一手法である。
"上を向いて歩こう"は1961年の4月8日から始まったテレビ番組"夢で逢いましょう"(NHKテレビから生まれた曲である。小粋な画像と演出で後世に語り継がれる番組である。この年の4月1日、朝日新聞の番組欄は前日までラジオが上部、テレビが下部だったのがこの日から逆となり、テレビ時代の幕開けを象徴している。ちなみにこの年、テレビの世帯普及率は前年の40%台から60%強に跳ね上がっている。
そして、1963年には名アレンジ曲、ザ・ピーナッツの"恋のバカンス"(岩谷時子作詞,宮川泰作編曲)が大ヒット。これも若干中近東風のビッグバンドサウンドが洋楽嗜好のあるリスナーを満足させたが、1965年、ついに8ビート、英語詞による和製ポップスが現れる。エミージャクソンの"涙の太陽"(HOT
RIVERS作詞,早川博二作曲)である。
イントロの印象的なフレーズ。テケテケ〜のエレキサウンド。。。バッキングの新鮮さは当時としては比類を見ない。
しかし、Aメロのハーモニーは短調の主要三和音(Key:Gm:Gm,Cm,D7)のみであり、後述するハーモニーの目新しさはあまり無い。8ビートそのものにも、若干のぎこちなさがあり、間奏のエレキギターもアドリブ終結部分に中途半端さが見られ、歌謡曲の洋楽化の黎明期を物語る。
このバッキングは当初、スタジオミュージシャンを使ってレコーディングしたそうだが、迫力に欠けるとのことで、再録音となった。そこで、クレージービートルズが起用され、その演奏はエミージャクソンからも大絶賛されたと同バンドの岡賢一(Gt)が自著で語っているが、ジャッキー吉川とブルーコメッツのメンバーは彼らの演奏が採用されたと証言している。
同じ頃、田辺昭知とスパイダースが発表したのが"フリフリ"(かまやつひろし作詞作曲,田辺昭知編曲)。評論家たちは三々七拍子サウンドと呼んだが、実際は四つ打ちリズムで四拍目を休符にしただけであった。この1965年の二曲は和製POPS一般化の前兆を見せてくれたが、しかし、"ダークな背広にブーツを履いて"歩く"フリフリ"は先端的な若者の支持を得たと言う側面はあったものの、一般の歌謡曲愛好家には抵抗があり、大ヒットとまでは行かなかった。
また、同じくスパイダースの傑作バラード、「ノーノーボーイ」(かまやつひろし作詞作曲)でもリムショットのスネアが1,2,3と三拍打って、四拍目を休んでおり、「フリフリ」との共通点が見られる。
1964年から数年間はBEATLESが音楽的、風俗的言論的に既成概念を打破した時代である。特にBEATLESが来日した1966年はターニングポイントの年だ。"青い瞳(日本語盤)"(ジャッキー吉川とブル−コメッツ)が英語盤に続いて発表され、我が国における8ビート・バンド楽曲一般化の嚆矢となったのである。
* グループサウンズによる日本のポップス革命
こういった弾きながら歌うバンドは1967年頃、マスコミによってグループサウンズ(GS)と名付けられた。それまでの歌謡曲との大きな違いはマイナー曲のコード進行に現れるメージャーコードである。GSで多く見られるのが♭Y(Key of AmにおけるF)、続いて♭Z(同じくG)、♭V(同じくC)である。これらはマイナー特有の湿っぽさを排除し、またT→♭Z→♭Y→X7(Am→G→F→E7)は無国籍的な作詞との相乗効果で異国情緒を充分に醸し出した。ブルーコメッツのヒット曲でよく聴かれるエンディングだけ同主調のメージャーコードもインパクトがあった。最も有名なのはブルーシャトウBmにおけるB(メージャー)で、クラシック音楽理論による「ピカルディの3度」を単純化した手法である。
GSメンバー自身による作品で、橋本淳・井上忠夫コンビとは違ったテイストで注目されたのがスパイダーズの かまやつひろし
作の曲である。ジャズメンを父に持つ彼の
センスは通受けするものであったが、一般的な再評価はむしろ後年になってからであろう。"バン・バン・バン"(作詞作曲共本人)などのリフで押し通す曲以外にも"あの時君は若かった"(菅原芙美恵作詞)という名作を産んだ。この曲の最初のコード進行はDm7-G7-Cでkey of Cの弱進行である。
これに乗せるメロディーラインは純日本人の感覚ではなかなか作れない。そして、エンディングの半音階展開。これをOKとしたレコード・ディレクターのセンスと決断も評価に値する。
そして、グループサウンズの標準リズムであるスタンダード8ビート(ヒトによってはゴールデンビートと呼ぶ)がその後の歌謡曲の標準リズムパターンにもなっていく。
ドラムのハイハットは八分音符きざみ、スネアは2拍4拍、バスドラはドーン・ド・ドン、ベースもバスドラと同じという基本パターンである。音楽への目覚めが遅かった私にとって、これ以前のパターンは全て乗りにくい。
* セッション・アレンジへのアプローチ
このGSがわずか3年間のあだ花で終わったというのはよくマスコミで言われることだが、いろいろな意味で日本のポップス界の革命に寄与し、発展的に解消したと見たい。
専属作家制からフリー作家への世代交代、コンボ・バンド編成による伴奏、前述したエイトビートの定着、日本語ロックへのアプローチなどである。
GS時代にデビューした職業作家からは筒美京平(作曲)、村井邦彦(作曲)、阿久悠(作詞)、GSメンバー自作作家からは井上忠夫(後の大輔、作曲)、加瀬邦彦(作曲)などがその後のJ-POPサウンド形成に大きく貢献している。
この頃に曲を作り始めた筆者は1969年からエレックレコードの作曲通信講座でコード進行の基本を学んだ。
フォークはロックへ、ロックはジャズへアプローチするのが進化とされていた時代だった。
* 魅惑のメージャーセブンス
1968年に東芝音楽工業(後の東芝EMI〜EMIジャパン)が立ち上げたエキスプレスレーベルによるカレッジポップス・シリーズはグループサウンズとはまた違った清涼感のあるサウンドを世に出していった。
1971年、赤い鳥は村井邦彦作曲の「忘れていた朝」(山上路夫作詞、川口真編曲)を発表。1小節目のじゃらーんというメージャー7thサウンドは新しい時代の到来を予感させた。このメージャー7thコードはルート音がC(ド)の場合、通常のCコード(ドミソ)の上にB(シ)音を重ねるもの。波間にたゆたうヨットといった洒落た音である。
ダイアトニックコード(楽譜上、臨時記号がつかないコード)の中ではTmaj7(key of CでCmaj7)とWmaj7(Fmaij7)が使われる。
このコードはビートルズなどのリバプールサウンド系にはほとんど登場せず、ボサノヴァ系の曲に多用される。力強さとは対極にある音だからであろう。
一般のリスナーには後にエリック・サティの
著作権保護期間が切れた1985年頃に「ジムノペディ第1番」のイントロが巷間に溢れかえったことでお馴染みである。
*洗練されたアレンジの大衆化
村井邦彦(作曲)と川口真(編曲)のコンビは寡作ではあるが、洗練された曲を後世に残している。
東京芸術大学楽理科・作曲科出身の川口真は元々クラシック音楽家を目指していたが、在学中に内藤法美(越路吹雪の夫)バンドのピアニストがきっかけで、芸大から離れ、ポップスが本業になっていく。
歌謡曲アレンジャーとしてのデビューはかなり早く、1963年の「見上げてごらん夜の星を」(永六輔作詞、いずみたく作曲、坂本九歌)というキャリアの持ち主である。
村井邦彦作曲-川口真編曲のコンビは「エメラルドの伝説」(1968年、ザ・テンプターズ)が最初で、サビ前でのV7sus4−V7(key:Dm:A7sus4-A7)進行はその後、大流行となった。
この曲ではそのA7の次に平行長調のトニック、Fに進行することにより、さらに新鮮さを出している。つまり、Dm(F:Ym)の代理としてF(T)を使うということで、メジャー曲の定石の逆を使っている。
この転調手法は後の「北国行で」(1972年、山上路夫作詞、鈴木邦彦作編曲、朱里エイ子歌)でも使われている。(同じくKEY:Dm→F)
その後、このコンビは「ダニエル・モナムール」(1969年)、「経験」(1970年)(共に安井かずみ作詞・辺見マリ歌)、「忘れていた朝」(1971年、後述)と次々と洒落たサウンドを作り出していく。
「経験」ではエイトビートにもかかわらずジャズっぽいピアノのバッキングやマリンバの
フレーズが新しい音作りを見せている。
イントロ、エンディングのマイナークリシェ(Bm-BmM7-Bm7-Bm6)は文字通り“常套手段”だ。
ザ・サベージの「渚に消えた恋」(1967年、佐々木勉作詞作曲)でAm-AmM7-Am7-AmM7が使われていたものの、多くのリスナーにとってはこの「経験」がきっかけで耳に馴染むようになったような気がする。
http://www.youtube.com/watch?v=X5PvZNVScwE&feature=fvwrel
*付加的後接メロディーの草分け〜吉田拓郎
1970年代はフォーク系シンガーソングライターが歌謡曲界に進出した時代である。常に新しい感覚を求めるレコード業界はフォークシンガー特有の弾き語り風の楽曲に目をつけたのだ。「弾き語り」とは弾きながら歌うことを指すが、どちらかというとメロディーラインよりも歌詞の内容を重視した作風は散文を読み上げているような歌で、文字通り「弾き語り」と言える。
吉田拓郎、谷村新司、小椋圭などである。
この人たちの作風について、よく言われるのが「それまでの一音符に一文字主義から脱した作り方」という論評である。しかし、それは正確な見方に当たらない。元々、この系統の作家に音符という概念が希薄であろうことは明確だからだ。それ以前の韻文を前提とした詞ではなく、敬体(です、ます形式)をも使った散文とギターのコードをつま弾きながらのメロディーが同時進行で作られる。
このようなフォーク系の曲を載せた楽譜集には十六分音符が羅列されているが、本来はそれほど細かく表記する必要はない。
そのメロディーに倚音、いや刺繍音などによるテンション・リゾルブはほとんどないので、細かく音符にする必要はあまりないのだ。極端に言うと、同じ音程が続き、息継ぎが無い間は音符ひとつでもよいはずだ。
まあ、楽譜表記の考え方や必要性論議は本質としてはあまり重要ではないのだが、これらの作家が歌謡曲界に新しい空気をもたらしたことだけは確かである。
中でも、吉田拓郎による「付加的後接メロディー」(注*)は特に斬新であった。
注*「付加的後接メロディー」
・・・この用語は筆者が命名した言葉であり、音 楽理論の世界で認知されているわけではない。
吉田拓郎は1972年の「結婚しようよ」(吉田拓郎作詞・作曲・歌)の大ヒット後、楽曲提供依頼が殺到し、1973年、ついに由紀さおりが歌う「ルームライト(室内灯)」(岡本おさみ作詞・吉田拓郎作曲・木田高介編曲)で歌謡曲界への楽曲提供の端緒となった。
吉田拓郎は元々、アレンジャー的なサウンドづくりを行わない人ではあるが、メロディーの構成の点ではユニークな嗜好を持つ人である。
楽曲のひとつのまとまり、つまりコーラスが一通り終わった後、予期せぬメロディーが登場させるのが好きなのだ。1980年代後半以降、楽曲構成の拡大が進み、A-B-C-D-Eというように次から次へと新たなモチーフが出て来る曲が普通になったが、吉田拓郎が好むのは「予期せぬ新たなモチーフ」である。明らかにそれまでの一部、二部、三部形式などという理論では説明できない構成である。
この予期せぬメロディーを筆者は「付加的後接メロディー」と呼ぶ。平たく言うと、「とってつけた感じ」とでも言えばよいだろうか?
「ルームライト(室内灯)」ではA-B-Cという構成のメロディーが終わった後、「そのせいじゃなく 疲れてるみたい」という唐突な2小節のメロディーが現れる。
コード進行も♭Y(key:B♭)であるG♭(サブドミナントマイナーE♭mの代理)を突然登場させ、意外性を出している。
吉田拓郎は1970年、エレックレコードから「古い船を動かせるのは古い水夫ではないだろうw/マークU」という意味深長なタイトルのシングル盤でデビューした、エレックレコードは作詞作曲の通信講座を母体とする会社で、今でいうインディーズである。実は筆者は大学受験浪人中だと言うのに、この通信講座の会員であった。
このB面の「マークU」(吉田拓郎作詞作曲)では、A(8小節)−A(8)−B(4)−A(8)の2コーラスの後、間奏(=A)があり、その後、ABAでひと通り歌が終わったと感じさせたあと、付加的に初めて出るモチーフのメロディーが8小節(つまりC)が歌われ、曲が終わる。AABAの部分はkey:Emであるが、Cの8小節では平行調のGメジャーとなって新鮮さを出している。
さらに1972年の「たどりついたらいつも雨ふり」(吉田拓郎作詞作曲・モップス歌)では
A(8)−A(8)−B(12)−間奏(4)の後、初出のC(4)−間奏(8)があり、その後、最初のA−A−B
を繰り返した後、さらに初出のDが出て来る。
この曲の場合は全体にキーはA(メジャー)に固定されているが、D冒頭部分の同音連続はそれに至るまでのこの曲の雰囲気を一新した感じを受ける。
これら三曲は「楽曲構造の基礎」の教え通りでなければいけないという保守的な考え方では成立しない作りであり、吉田拓郎楽曲起用を決めたレコード・プロデューサに拍手を送りたい。
1975年には、かまやつひろし歌による「わが良き友よ」(吉田拓郎作詞作曲)というわかりやすい曲が大ヒット。この曲は楽曲構造的には特徴はないが、かえってそのレトロ感が受けたようだ。筆者の大学卒業式にはサプライズで、かまやつひろしが登壇し、この曲を歌ったので、個人的には印象深い。
これが契機となったのかどうかわからないが、この後、キャンディーズへの楽曲提供などの活躍場面では吉田拓郎独自の感覚による「付加的後接メロディー」は姿を消していく。
しかし、後年当たり前になっていくA―B−C−D−Eなどという楽曲構造拡大時代の草分けであったことは確かだ。
*和製ボサノヴァ・ポップス
1970年代はまた、ボサノヴァのリズムをとり入れた佳曲が目立つ時代である。
荒井由実作詞作曲の「あの日に帰りたい」(1975年、松任谷正隆編曲)。この曲がドラマ主題歌(TBSテレビ「家庭の秘密」)になったことで”通”以外の一般大衆に知られるようになった。ボサノヴァを新しく解釈したアレンジが素晴らしい。
ギターのボサノヴァ刻みに半速感でドラム(林立夫)を加えている。通常のボサノヴァのリズムにビートを2倍に伸ばした感じのドラムだ。スネアはボサノヴァ特有のクローズド・リムショットではなく、ベースの刻みと合わせて、全体を16ビート的にとらえている。
曲の中で、ドラムが決してうるさくなっていないのが素晴らしい。
これに先立つ1968年、森山良子が歌う「雨あがりのサンバ」(山上路夫作詞、村井邦彦作編曲)は和製ポップスでの本格的ボサノヴァとしては初の曲ではないだろうか。元々、「小さな貝がら」のB面扱いで世に出たのだが、本稿では例外的にこのB面曲を扱う。メロディーライン、アレンジ、ストリングスのラインなどの演奏のすべてが”ボサノヴァ”している。当時は日本人のリスナーがこの曲を聴くレベルに達していないと判断されたためか、B面とされたが、今日でも高い評価をしたい曲である。
この1968年は村井邦彦が出世作「エメラルドの伝説」(なかにし礼作詞、村井邦彦作曲、川口真編曲)を発表した年でもある。
後に発売された「森山良子オリジナルベストヒット・コレクション」(2002年)にはA面曲を差し置いて収録されていることからも、森山良子本人や関係者の評価が高いことがうかがわれる。
村井邦彦は翌1969年には、「美しい誤解」(安井かずみ作詞、村井邦彦作曲、小谷充編曲、トワ・エ・モワ歌)という傑作も発表している。そして同年、ピンキーとキラーズの第2弾として発表された「涙の季節」(岩谷時子作詞、いずみたく作編曲)はボサノヴァのリズムを借りていたものの、メロディーラインは歌謡曲然としていた。今陽子の歌唱力は評価できるが、1950年以降の歌謡曲作りの定石となった
「エキゾティックなリズム名を売り物にした曲」の域を脱しえなかった。
村井邦彦は同じ1969年に「別れのサンバ」(長谷川きよし作詞作曲)の編曲も担当している。本格的なボサノヴァギターに乗せたこの曲は旋律が"遠慮"しているきらいがあるが、村井は「長谷川きよしのギターのベースラインを生かすために楽器のベースを使わなかった」と述べているそうだ。(注*)
(注*)朝日新聞2012年7月14日付「うたの旅人」
この曲における長谷川きよしのギターテクニックは卓越している。村井の仕事はアレンジというよりもプロデュースという観点に拠る意味が大きいと思う。
* セッションアレンジの勃興
1971年、筆者はジャズギタリスト増尾好秋への憧れから早稲田大学モダンジャズ研究会に入って半年で挫折した。しかし、複雑なコード進行やテンションの使い方に興味を持ち、ヤマハ作編曲教室(林雅諺講師)の門をたたいた。時は折からCHICAGOやBLOOD,SWEAT&TEARSのブラスロックが最新サウンドとされていた。一方、日本ポップス界ではグループサウンズ・ブームの商業的な成功に違和感を覚えるミュージシャンやレコード会社、ファンが日本の新しいロック、ポップスシーンの創造を始めていた。
また、グループサウンズ(GS)の商業主義に背を向けた異才、奇才によるエイプリルフール〜はっぴいえんど〜キャラメルママ〜ティンパンアレイの流れも1970年前後の重要なシーンである。
これらのグループに所属したミュージシャンは極めて短い間に細胞分裂や増殖を繰り返しながらも、日本のポップス界に貴重な一石を投じた。
1969年に結成されたエイプリルフールに対しては当時のミュージックライフ(1969年10月号)が「〜今まさに日本のGS界に〜」新星が登場したかのような記述をしたが、(*)明らかにそれは歌謡曲化するGSとは別の動きであった。
(*)萩原健太 1983「はっぴえんど伝説」(八耀社)より
エイプリルフールに在籍した細野晴臣、松本隆が大滝詠一、鈴木茂と結成した”はっぴいえんど”。。。この四人の全員が後年になって、歌謡曲の進化に多大な貢献をしたのは特筆すべきことである。
はっぴいえんどの二枚目のアルバム、「風街ろまん」は「日本語をロックに乗せる試みに大きな貢献をした」ことになっている。確かに収録曲はベース指定コードの多用等、新しいサウンドを追求しているが、その日本語がきれいにメロディーに乗っているとは言い難い。後年の評論家がこのアルバムに対してステレオタイプな論じ方しかしないのは残念である。
むしろ、このアルバムは日本的情緒の見直しによる日本のポップスの脱皮に成功していると言える。それまでの日本の歌が作詞も作・編曲も西洋的目新しさにより進化しようとしてきたことに対するアンチテーゼなのではないか。
これは視点こそ違え、後年の椎名林檎の方向性と共通する。
***
この後、細野は鈴木茂、松任谷正隆、林立夫を誘って、キャラメルママを結成し、自らが表に出るというよりは新しい時代のポップス伴奏を作り出していく。
細野は、後述する後藤次利(サディスティックミカバンド)と共に、地味な存在だった歌謡曲におけるベースという楽器の存在を大きな変えた。それまでは定型的な演奏を強いられた
歌謡曲におけるベースをドラムとの共同作業によるリズム作りというジャズ的手法によるアレンジに進化させたのである。
1970年以降のヘッドアレンジでのスタジオ録音にはマスターリズムと呼ばれる譜面を使う。
ビッグバンドのような各パート全てが指定音符という形式ではなく、クイ(アンティシペーション)、ブレイク、リズムのキメ(セクションとよぶことも多い)以外のほとんどをミュージシャンのセンスに任せるのである。
*レコードにおけるスタッフ表記の変化
それまで、歌謡曲と呼ばれる音楽のレコードのバックバンドは「ビクター・オーケストラ」などのレコード会社を冠とした楽団名が書かれているだけであったが、こうしたセッション風アレンジの登場を契機にバックニュージシャンの個人名をクレジットする例が現れ、ユーミンの1stアルバム「ひこうき雲」からすでに表記されている。シティ感覚の歌謡曲はニューミュージックと呼ばれるようになり、1980年代にはバックミュージシャン名表記があたりまえになって行く。
また、チューリップの「君のために生まれかわろう」(東芝音楽工業、1972年)ではPRODUCED BY KAZUNAGA NITTAとして、担当プロデューサの名と共に、エンジニア、デザイナーの社員の名もジャケットに印刷された。おそらく業界で初めてのことだった。半年前の「魔法の赤い靴」(チューリップ)では社員の名をクレジットすることを上層部が認めず、スタッフが次のアルバムでこっそり明記したのだった。しかし、雑誌の世界では 社員スタッフの名を入れることなど常識であり、書籍では昔から著者が担当編集者に謝辞を述べるのが通例となっていた。
レコードの制作体制の近代化につながるエポックメイキングな出来事だったと言えよう。
・参考文献:2012年3月16日 付・朝日新聞be(土曜)版 (文:中島鉄郎)
*新感覚のバッキング制作
1973年歌手デビューの荒井由実(現・松任谷由実)のLP「ひこうきぐも」、「ミスリム」(1974年)にはキャラメルママのメンバーがクレジットされている。これはキャラメルママが南正人、吉田美奈子に続いて歌手のバックを努めたLPで、当時としては画期的なセッション的雰囲気で録音されたレコードである。
プロデュースは村井邦彦であった。
彼は後にプロデューサとしてYMO(イエローマジック・オーケストラ)(1978年〜)も世に出し、まさに近代日本ポップスの産みの親である。
当時、歌手のバックと言えばジャズ畑出身のミュージシャンによるビッグバンド+クラシックを本業とするストリングス編成がほとんどであったのと違い、リズムセクションのみによるヘッドアレンジ感覚であった。
厭世観漂うユーミンの詞、それなのに決して暗くならないメージャー7thコードの多用、頻繁な転調を駆使するユーミンの曲メロディーづくり、その全てが新しかった。それまで、歌謡曲の間奏は歌メロを繰り返すのが、定番だったのが、このLPでは1コード(いわゆる一発)、または2小節単位2コードに乗ったアドリブ風フレーズが目立った。
当初の荒井由実のレコードはキャラメルママによる集団伴奏制作体制という感があったが、次第に松任谷正隆によるアレンジ及びサウンドプロデュースになっていく。
* リズム楽器の音の変化
エレキベースのサウンドと役割がそれまでと大きく変化したのもこのころである。
単なるリズムキープからメロディックなフレーズを弾くのが当たり前になっていく。これはなんと、BEATLESの名曲"SOMETHING"(1969年)にその源流を見い出すことができる。そして次に音が変わったのがドラムである。ヤマハ・ポプコン出身の高木麻早・歌の"思い出が多すぎて"(1974年,萩田光雄編曲)でエコー(ここでは現代のリバーブとディレイを包含した概念とする)の効いたドラムの音を聴いて、私は驚愕したものである。その後、ドラムの音はシモンズの大流行(ピンクレディの頃)、スネアにゲートリバーブを経て、スコーンという乾いたサウンドが定番となった。
* ベース音指定コードの定着
ベースという楽器の役割は当然、バンドの中の最も低い音でビートを保つことである。この頃までのポップスでは、ランニングベース以外はコードのルート(クラシック和声では根音)を刻むことがほとんどであった。
それが1970年代から様変わりし、多種多様なベース音指定パターンが普及していく。
その中で、特記すべきはW→X7/W→Vm→Ym(key of C:
F→G7/F→Em→Am)という進行である。
W(F)はWmaj7(Fmai7)となることもある。
クラシック和声では「属和音の第三転回の根音が主和音の第二転回の根音に進む」
と解説される用法の変形である。
この進行が使われた最初のヒット曲は1975年の「卒業写真」(荒井由実作詞・作曲・歌)かと思っていたが、その前年のチューリップのヒット、「サボテンの花」(財津和夫作詞・作曲)ですでに聴かれる。
もっとも、荒井由実の曲では「サボテンの花」と同年の「私のフランソワーズ」ですでに現れる。
この進行はサビの頭に置くことが多く、その後の日本のポップス作りの定石となった。
その後のヒット曲では「Yes,No」(1980年、小田和正作詞・作曲、オフコース・歌)、「悲しい色やね」(1982年、康珍化作詞・林哲司作曲、上田正樹・歌)、「M」(1988年、富田京子作詞、奥井香作曲、プリンセス・プリンセス・歌)、「あなたに逢いたくて」(1996年 松田聖子作詞、松田聖子・小倉良作曲、松田聖子・歌)とこの系譜が続く。この進行は後年、ネット時代に入って、「ニコニコ動画」の某投稿者により、「J-POPの黄金進行」と名付けられ、より広い人口に膾炙するようになる。
*和製ボサノヴァ・ポップスのその後
1975年のユ−ミン、「あの日に帰りたい」以降の和製ボサノヴァ・ポップスを見てみよう。
翌、1976年の「どうぞこのまま」(丸山圭子作詞作曲・青木望編曲)では自作自演の丸山圭子のアンニュイな歌声が世の男性リスナーを虜にした。
アレンジは「あの日にかえりたい」とは対照的にオーソドックスなボサノヴァであったが、
この2曲には明確な共通点がある。
歌メロの1コーラスが終わる寸前のジャッジャーというドミナント7th(key:AmのときはE7)のブレイクである。これはボサノヴァ・アレンジのお約束である。
この頃、八神純子はボサノヴァ調の曲作りを得意としており、メージャーデビュー前の1974年に第8回ポプコンでは「雨の日のひとりごと」(八神純子作詞作曲、小林南(ポプコン)編曲、大村雅朗(レコード)編曲)を発表し、デビュー後の1978年には、「思い出は美しすぎて」(八神純子作詞作曲、戸塚修編曲)という傑作を残している。レコードアレンジの大村雅朗、戸塚修の二人はヤマハ作編曲教室出身の逸材であり、同時期のヤマハスタッフ関連出身者としては船山基紀、佐藤健、飛澤宏元もいる。
そして、アレンジ的には前述の「あの日に帰りたい」路線を踏襲して作られたのが1979年に門あさみ(*)が歌った「ファッシネーション」(岡田冨美子作詞、門あさみ作曲、戸塚修編曲)。伝統的ボサノヴァとは一線を画すポップなイントロで始まるこの曲のドラムは16ビート的処理であった。
前述の丸山圭子と同じく、このようなけだるさ、やるせなさを感じさせる声質がボサノヴァの本領であろう。
和製ポップスにおけるボサノヴァ出現は1980年代に入って一段落するが、1989年、なんとブラジル生まれの日本人という小野リサのポルトガル語による「星の散歩(PASSEIO NAS ESTRELAS)」(Lisa Ono,Belvenoit Roger&Helio Celso作詞、Lisa Ono作曲)が大ヒット。バッキングは
極めてオーソドックスなボサノヴァ・サウンドであるもののスネアドラムのリムショットは通常のポップスの如く8ビートノリの2拍、4拍であったのが残念である。
1908年にブラジル移民政策がスタートした後の約80年後、このような形でブラジルからアメリカ経由での音楽導入がされ、一般大衆が受容したことは非常に感慨深い。
(*)門あさみ・・・第9回ポプコン中部グランプリ大会で筆者が作・編曲した「世界中の光を」(小野峰人作詞)を安藤こうじとデュエットで歌っている。(優秀賞受賞)
この大会では八神純子、柴田容子、佐々木悟朗などのシンガーソングライターや作曲家の野口義修なども出場している。
また中部地区はアレンジャーの森田雅彦も輩出している。
* 筒美京平、最強の年、1978年
筒美京平が日本ポップス史上希代のソングライターであることは誰もが認めるであろうが、その作品の中でも筆者は1978年発表の楽曲に特に注目する。
いわば、筒美京平最強の年と表現したい。
一般的に氏はアレンジャーというよりソングライターとして評価されていることが多いが、
この年の「シンデレラハネムーン」、「東京ららばい」、「たそがれマイラブ」、「魅せられて」(以上すべて筒美京平作詞作曲)はソングライティング(作曲)とアレンジ(いわゆる編曲)とを両方こなしている。
「魅せられて」は1979年1月発売だが、前年の録音であることは明らかであろう。
どれも一度聴いたら忘れられないスケールの大きいイントロが印象的である。また、これらの曲に共通するのはリズムセクションとシンクロさせたポップス的なストリングス・ラインである。これより前の世代の歌謡曲のストリング・セクションとは明らかに違う。
「シンデレラ・ハネムーン」(岩崎宏美・歌、阿久悠・作詞)では後藤次利のチョッパー(欧米ではslap)ベースが聞かれる。後藤次利は日本で初めてチョッパーベースをレコーディングした(1975年、ティンパンアレイのアルバム、「キャラメルママ」に収録された「チョッパーズブギ」)とされているが、この曲は私の知る限り、日本で初めてのヒット曲におけるチョッパー・ベースだ。
後藤は翌1979年、沢田研二が歌った「TOKIO」(糸井重里作詞、加瀬邦彦作曲、後藤次利編曲)で、さらに派手なチョッパー・ベースを聴かせている。
「シンデレラ・ハネムーン」のリズムセクションは他に松原正樹(Gt)、坂本龍一、佐藤準、渋井博(Key)、林立夫(Drs)、斉藤ノブ(Per)という錚々たるメンバーだ。
「東京ららばい」(中原理恵・歌、松本隆・作詞)はラッラソララ〜(移動ド)という「悲しき願い」でおなじみのチープなフレーズを使いながらも民族的弦楽器やストリングスの同音連続フレーズが印象的だ。間奏の直後、リズムセクションの内、ベースだけが休止する。これは年を経て曲の構成が長くなるにつれ、後年一般化されたアレンジ・テクニックだ。 「ららっばい」の歌メロは「ばい」の部分が二重母音[ai]的に処理されており、これは1980年代以降のソングライティングの傾向を示唆している。
「たそがれマイラブ」(大橋純子・歌、阿久悠・作詞)ではアウフタクトで始まった後の最初のコードがマイナーにおけるドッペルドミナント、A7(U7:key of Gm)で、メロディーはC♯音になっている。このコードは歌謡曲においては都会感を出すのに重宝され、Aメロの後半に出て来ることが多いが、この曲では?(??)っ?(??)に出て来るのがユニークである。
「魅せられて」(ジュディオング・歌、阿木耀子・作詞)はサビの初めの歌メロがマイナー・トニックの9th(AmにおけるB音)に行くのが、それまでの日本ポップスにはなく、新鮮である。
そして、筒美は同年の「飛んでイスタンブール」(庄野真代・歌、ちあき哲也・作詞)で船山基紀に編曲を任せて以降、1980年代のJ-POPでは筒美(ソングライティング)・船山(アレンジ)コンビという強力布陣が出来上がる。
*元はっぴいえんどメンバーの活躍(1)
1981年になって、細野晴臣作編曲による「ハイスクール・ララバイ」(松本隆作詞、イモ欽トリオ歌)という傑作が大ヒット。YMOで実験精神を発揮して作ったコンピュータ音楽の見事な大衆化である。
イモ欽トリオ三人組の振り付けにはスネアとハイハットを叩くしぐさや、アナログシンセサイザーの結線を入れ替える様子まで採り入れられており、すぐ後に訪れるMIDI音楽全盛時代の伏線となったと言えよう。
さらに細野は1983年には「ガラスの林檎」(松本隆作詞、大村雅朗・細野晴臣編曲、松田聖子歌)、「禁区」(売野雅勇作詞、萩田光雄・細野晴臣編曲、中森明菜歌)で、リズムアレンジを担当する。大村雅朗、萩田光雄によるブラス・ストリングスなどの上物(うわもの)アレンジとの共同編曲である。
http://www.youtube.com/watch?v=O0ABBSFt6mk
1970年前後にコマーシャリズムへの反旗で始まった細野の進取の精神は十余年かかって
最も大衆的な歌謡曲を聴く客層に抵抗なく受け入れられると、レコード会社スタッフに判断されたのである。
ちなみに大村、萩田は共にヤマハ作編曲教室出身であり、この細野とのコラボレーションは1970年代にポプコンで新しいサウンドを追求した両アレンジャーの面目躍如たりとも言えよう。1978年「みずいろの雨」(八神純子作詞作曲)の編曲で注目された大村雅朗は1997年に46:歳の若さで急逝、その才能が発揮される道が途絶えたのは残念である。
*元はっぴいえんどメンバーの活躍(2)
。。。。。。。。。。。一方、元はっぴいえんどメンバーの大瀧詠一は「風街ろまん」発表の頃から
すでに自らのアルバム作りに没頭し始めている、そもそもグループサウンズ・ブーム末期の頃、日本のポップスは商業的な歌謡曲化か、セッション重視のロック化かに方向性が二分された。タイトで細分化されたリズムや複雑なコード信仰(!) は一方の方向性である。
ところが大瀧詠一はそのどちらにも与せず、1960年代前半のアメリカンポップスのサウンドの和製ポップス化を模索した。
CAROL KINGやLEIBER&STOLLERに見られるソングライティングやフィルスペクターサウンドを信奉する彼はアメリカ文化を吸収して換骨奪胎したとも言える親しみやすい日本のポップスを作る。
1981年にはアルバム「LONG VACATION」をヒットさせる。
これはその直後に到来する’80年代若者文化の先取りとも言える。
この大瀧ソロ名義アルバムのゲストミュージシャンには安西史孝、大浜和史の両名が見られる。前者はその後マック(*)によるコンピュータミュージックの開発、後者はヤマハ・デジタル・シンセサイザー開発に多大な貢献をすることになる。
この「LONG VACATION」に収められている「さらばシベリア鉄道」、「恋するカレン」、「君は天然色」ははいわば懐かしいけど新しい音であった。歌謡曲の伴奏の編成が縮小化
されたセッションアレンジに向かう中、わかりやすいコード進行、楽器音色のブレンド、音響効果による分厚い音に
日本人的とも言える大瀧のVOCALを乗せているところに特徴がある。
21世紀の今でもいわゆる大人のバンド界では根強い支持のある曲たちである。
* キーボード楽器の音色変化
1980年頃からはフュージョンが定着し、筆者は渡辺貞夫のレコードを一生懸命研究し、自らの曲のアレンジの参考にしたものだった。
海外ではスパイロジャイラの新しいラテンが入ってきて、世の中がいやに明るくなってきたと思ったのがこの頃である。この潮流はスクウエア、カシオペアと流れる。
1983年は楽器界、ポップス界にとってエポックメイキングな年であった。デジタルシンセサイザーDX7が驚異的なベストセラーとなり、あのキラキラした有鍵打楽器的な音が特に人気を呼び、フェンダーローズ
もソリーナもムーグも駆逐してしまった。
このようなシンセサイザーの進化と"はっぴいえんど"の流れをくむスタジオ・ミュージシャンのテクニックの向上が歌謡曲のアレンジを刺激し、新しいサウンドが生まれていく。
1981年、"ルビーの指環"(松本隆作詞、寺尾聡作曲,井上鑑編曲)のアレンジで一躍注目を集めたのが井上鑑である。この曲はハネた16ビートが初めてJ-ポップのメインストリームでヒットした曲であろう。このリズムはハーフ・シャッフルと呼ばれることが多い。イントロはマイナートニックのベース半音下降で、まさに使い古された常套句(クリシェ)だが、インパクトのあるギター・リフにタッタというドラム・フィルにより、新しく感じる。
淡々と歌っている寺尾聡だが、ハネた16分音符ツッコミの部分も多く、素人がノるには難しい曲である。コード進行は全体的にオーソドックスだが、間奏の途中でアナライズの難しい進行が1小節だけ出てくる。
この1小節だけhttp://www.ab.cyberhome.ne.jp/~sancha/index.htmlというのがシャレていて泣かせる。
このようにフォー・リズム+シンセサイザーのアレンジの進化はめざましかったが、一方このころから自然楽器のコンビネーションによるアレンジが急激に減ってしまったのは寂しい。オーケストレーションを書かなくてもアレンジャーと呼ばれることも多くなった。世界的な大ヒットとなったWHITNEY HOUSTONのデビューアルバムがわりあいトラディショナルなアレンジになっていたのがわずかな救いである。
迫力満点の男女デュエットを持つバービーボーイズ
1984年、前代未聞のバンドがメージャーデビューした。KONTAと杏子のデュエットを中心とするバービーボーイズである。
日本における男女デュエット曲はムード歌謡と呼ばれるジャンルに多い。通常は最初の8(4)小節で男、または女が歌い、次の8(4)小節では異性が歌う。バービーボーイズもそのセオリーを踏襲することが多いが、従来とは違う大きな特徴がある。例えば最初が女声の場合、次の男声が同一メロディーを歌う場合、普通は1オクターブ下を歌うのだが、このバンドではKONTAが女声と同じ音域を歌う。このため、普通の楽譜では男声は実音のオクターブ上で記譜するのだが、このバンドの楽譜を起こす場合は実音で書いた方がわかりやすくなる。
一般的に、女声曲を男が歌う時は無意識にオクターブ下げてしまうものだが、KONTAの太い声は何の苦労もなく、女声実音が出る。逆に普通の男声曲を女が歌う場合は無意識に1オクターブ高く歌ってしまうが、途中で高い音域になると女の方が発声音域が足りなくなることが常だ。このバンドではKONTAの高い音域を活かして、音域の低い杏子の声とうまく合わせ、リスナーにロック的な曲調をアピールできている。
男女が3度でハモる場合、通常は男声が女声の6度下を歌い、記譜上は男声が3度上で、聴感上も男声が3度上に感じることが多いが、バービーボーイズでは男性が実音同士で3度上を歌うことも多い。
バービーボーイズの演奏アレンジの方では、ロックにしては複雑なコードが多く、全体がsus4サウンドで構成されているアレンジが売り物である。ソプラノサックス(KONTA)も3ピースバンド・サウンドにプラスする味付けとして役立っている。伝統的なロックンロール・バンドのテナー・サックスに比べて、間奏などで埋もれない特異なキャラクターとリスナーに印象を残すことができる。
また、ロック系の女声VOCALはジーンズ系の服装で歌いがちだが、この杏子はフェロモン全開の衣裳と振りで歌うのが魅力的だった。歌詞は「〜完全犯罪〜」(いまみちともたか作詞作曲「あいまいtension」より)のような抽象名詞や、「〜まぬけヅラしたやさ男〜」(いまみちともたか作詞作曲「勇み足サミー」より)など、ヤンキーなどと呼ばれるような男女が口にするような言葉が新鮮であったが、さすがにそれはその後のJ-POPのメインストリームとはならなかった。
このような歌詞はメインストリームにならない故の魅力がある。
バービーボーイズのような異例の男女デュエットはチャゲ&石川優子名義で発表された「二人の愛ランド」(1984年、チャゲ・松井五郎作詞、チャゲ作曲、平野孝幸編曲)でも見られたが、これはヤマハ音楽振興会の仕掛けによる一時的なコラボであった。Aメロの石川優子に続いて歌うA’メロのチャゲは1オクターブ下げることなく、なんなく歌っている。まさに真夏の歌にふさわさしい力強さであるが、ただし、サビでは実音でチャゲが3度下を歌っている。この「二人の愛ランド」が発表された1984年は奇しくもバービーボーイズ、メージャーデビューの年であった。
1987年には鈴木聖美w/Rats&Starによる「ロンリーチャップリン」(岡田冨美子作詞、鈴木雅之作編曲)で男女同一音程デュエットが発表され、その後のカラオケボックスでの定番となった。しかし、これも一時的なコラボで終わった。このタイプのデュエットをこなす太い声の男性VOCAL人材はなかなか見当たらず、後年にわたる系譜はほとんど途絶えている。
(注)ただし、当時はまだコラボレーションという言葉は使われていなかった
* 打ち込み音楽の定着
彼女のあのハイレグ水着がまぶたに焼きついた1984年、エアロビクスダンスの流行がピークに達した。これは今日では当然の
ようにして使われているコンピュータやシーケンサーによる演奏と大きな相関関係があると思う。
WHITNEY HUSTON、二作目のアルバム「WHITNEY」によって、NARADA
MICHAEL WALDENはグラミー賞最優秀プロデューサ賞を獲得したのだが、彼はなんと、荻野目洋子のアルバム「VERGE OF LOVE」をプロデュースする。荻野目洋子はアイドルとして人気があったが、その歌唱力、ダンス力、健康的なルックス、で日本のポップスの質を高めた一人である。「六本木純情派」(1985年、売野雅勇作詞、吉実明宏作曲、新川博編曲)などの佳曲にも恵まれた。FAIRLIGHT CMIを駆使したこの「VERGE OFLOVE」(1988年)だが、リフ、、
オブリガートなどは基本に忠実である。
荻野目洋子はそれまでより高い音域をこなし、
アルバムジャケットの彼女は意志的な眼で
正面を見据えている。
日本のポップスの歴史に燦然と輝く金字塔
と言っても過言ではないだろう。作家、村上龍が自らのトーク番組で絶賛していたのをよく覚えている。
そして、明らかにアレンジの概念が変わったとの実感をもったのは1983年、杏里の"CAT'S EYE"(三浦徳子作詞、小田裕一郎作曲、大谷和夫編曲)を聴いたときだった。
無機質に流れるシーケンスフレーズ、少ないオブリガート、やけに音量が高いスネア、−−−−これがアニメのテーマだから驚く。エアロビクスを踊るにはコンピュータのように正確でタイトなリズムの方が踊りやすい。リズムブレイクやリタルダンドなどは邪魔。フィルインなども大げさにはしない。このあとさらにKYON2の"なんてったってアイドル"(鷺巣詩郎編曲)を聴いた私は後頭部を一撃された思いがした。これはその十数年前にYMOを聴いて育った小学生や中学生が、若者文化の担い手となった
ことと無縁ではないだろう。初期の頃、サウンドのチープさが魅力だったゲームミュージックも進化した。
松任谷由実のアルバム「Delight Slight Light Kiss」(1988年)のライナーノーツにALL SONGS HAVE BEEN BASICALLY PEFORMED BY SYNECLAVIER(DIGITAL AUDIO SYSTEM)とクレジットされているのは、ついに最先端の音源録音がここに到達した象徴である。
いわゆる打ちこみリズムで幼児期に洗脳された世代がCD購買層の主流を占める1990年代に至って、ハウスやジャングルなどと名付けられたリズムがJ-POP界を席巻する。小室哲哉サウンドの大旋風である。これより少し前、ヤマハシンセサイザーEOS用音色ソフト「小室哲哉」というICカードのプロデュースを筆者が担当し、狭い業界としては爆発的ヒットとなった。このニッチな世界での音楽的要素が流行(はやり)もののメインストリームの世界になだれ込んだのである。
機能和声の準備を持たない突然転調というのはそれ以前にも多少は見られたが、この時代になってその実例は大幅に増加した。
この件に関して筆者はこう考える。同一曲の中の転調と思うから気持ち悪く感じることもある。しかし、異曲をつなぎ合わせたと考えると合点が行くのではないか?
DJ('90年代以降の用語としてのDJ)が2台のターンテーブルを使って巧妙に曲をつなぎ合わせていく。当然、キーはいろいろ。
この時代の小室サウンドはその雰囲気を一曲の中に納めたのではないか?
しかし、こうした傾向もほぼ数年位でJ−POPSのメーンストリームからは去っていく。
*順次下降ベースの大流行
1980年代はベースの順次下降進行が大流行した年代でもある。
ドーシーラーソーファー(移動ド)というように長調のスケール上でベースが下降していく
アレンジのことである。
バリエーションはいくつかあるが、KEY:Cの場合はC(T)―Em/B(Vm/Z)−Am(Y)−Am/G(Y/X)―F(W)〜となる。
Em/BはG/Bになることもあるが、それは紙一重だ。
1981年にヒットした「守ってあげたい」(松任谷由実作詞作曲歌・松任谷正隆編曲)は
ドから始まってレまで下降する見事な進行であった。(KEY:G) レの部分はUm7(Am7)であり、その後お馴染みのUm→X7でソ(X7:D7)に進み、最初からリピートするスムーズな展開である。
ここまで見事な順次進行はあまりないが、ここではドからファまで続く曲を例に挙げてみる。
2年後には「クリスマス・イブ」(1983年、山下達郎作詞作曲編曲・歌、KEY:A)が発表され、じわじわとヒットの階段を上り、JR東海の印象的なCMとの相乗効果で国民的な大ヒットとなった。
この年にヒットした「想い出がいっぱい」(阿木耀子作詞、鈴木キサブロー作曲、萩田光雄編曲、H2O・歌、KEY:C)も順次下降ベースである。
その後、この進行を使った曲として、「恋におちて」(Bメロ)(1985年、湯川れいこ作詞、小林明子作曲、萩田光雄編曲、小林明子・歌、KEY:D♭)、「会いたい」(1990年、沢ちひろ作詞、財津和夫作曲、吉野藤丸編曲、沢田千可子・歌、KEY:F)、「どんなときも。」(1991年、槙原敬之作詞作曲編曲・歌、KEY:F)と続く。
元々、歌謡曲の中でメージャー曲の占める割合が低い中での現象だから、かなりの割合で出現したと見て間違いなかろう。
この進行、そもそもは1967年の青い影(WHITER SHADE OF PALE)( words&music by K.Reid&G.Brooker、KEY:C)で洋楽ファンの耳に残った。この曲は歌メロより、オルガンのイントロ・メロディーとベース進行の方が印象深いという不思議な曲であるが、和製ポップスに採り入れられるのは意外に遅かった。
なんと1971年の「雨の讃美歌」(なかにし礼作詞、井上忠夫作曲、森岡賢一郎編曲、ジャッキー吉川とブルーコメッツ歌)のサビ(KEY:B♭)に見られ、ここでもブルーコメッツが先駆的な役割を果たしている。
ただし、この曲の場合はAメロのB♭mから同主調へ転調した後の展開である。
大ヒットした曲としては1973年の「みずいろの手紙」(阿久悠作詞、三木たかし作編曲、あべ静江・歌、KEY:B♭)が最初であろう。。。
なお、ド→シ→ラまでの順次進行はその前から多く見られたが、これはTとYmの繋ぎだけなので、ここでは対象としない。(1967年「亜麻色の髪の乙女」、1973年「心の旅など)
また、ドから半音ずつ下がっていく進行は別項に譲る。
* 打ち込み音楽とセッション・アレンジとの融合
'90年代初頭はまたいわゆる打ち込み音楽と前述のセッション・アレンジとの融合が見られて、ほっとした時期でもあった。今井美樹のアルバムのプロデュース、アレンジを何回か手がけた佐藤準のサウンドはシンセサイザーの音作りと自然楽器との両方を知り尽くしていた。筆者は二、三回彼と仕事で遭遇したことがあり、彼の手法は筆者のアレンジに大きな影響を与えた。
また、今井美樹のアルバム「retour」(1990年)収録の「幸せになりたい」(上田知華作詞作曲,佐藤準編曲)ではいわゆる"ワンノート・ファルセット"が登場している。これはメロディーラインの中の一音だけを急に高い音程にし、ファルセット発声することで、作曲上のアイディアでもあり、発声上の手法でもある。1990年代以降、日本のポップスでは頻発するようになる。言葉の助詞の部分を「〜〜が・・・」と極端に音程をあげることも多くなってくるが、これには筆者は違和感を感じる。
* 大衆J-POPの確立
'90年代はZARD、WANDS、T-BOLANなどのビーイング系と呼ばれるアーティストがヒットチャートを席巻したことも特筆しなければならない。
特に1991年にデビューしたZARDのサウンドは日本の大衆向けポップスのスタンダードを確立させた。エイトビートに乗せた八分音符きざみのパワーコード(三度抜き和音)風ギターとベース。一昔前にはハードロックサウンドと呼ばれたディストーションギター。
これは遥かGS時代に遡り、「ひとりGS」と呼ばれた曲にその原型が見られる。
「恋のハレルヤ」(黛ジュン・歌、鈴木邦彦作曲)、「虹色の湖」(中村晃子・歌、小川寛興作曲)の時代である。エレキサウンドに歌謡曲メロディーを乗せる。これがハードロック系に変わったのである。
1993年、ZARDとしての初のNO.1ヒット、「負けないで」(葉山たけし編曲)、そして「揺れる想い」(明石昌夫編曲)、「Don't You See!」、「マイフレンド」(共に葉山たけし編曲)には明確な共通点がある。作曲、サウンドプロデュースは主に織田哲郎である。(Don't You See!は栗林誠一郎作曲) 間奏が終わった後、ベース、ドラムの片方、あるいは両方が休止し、それがアクセントになっている。この手法はこの頃から日本のポップス・アレンジの常套手法となった。
このアレンジ手法の先駆けがどのあたりかは後世の研究家に判断を委ねなければならないかも知れないが、松任谷由実の曲で語れば「ANNIVERSARY」(アルバム・LOVE WARS」にその片鱗が見られる。
ただし、間奏で盛り上がったあとの休止という意味では性格を異にする。
ZARDの音楽はどれも似たアレンジである。この「同じような音づくりを続けていく」ことが大切なのである。それだからこそ、大衆は安心して聴ける。中途半端なプロデューサやアレンジャーはそこを勘違いしてしまうのだ。
ともあれ、このサウンドはJ-POPの論客、近田春夫氏をして、「ZARD(のスタッフ)は
100%クロウトの音楽家とかは相手にしていない。すべてシロウトの為に音楽をやっていたのだった。」と言わしめた。
* ドラムパターンの変化とユニット形式
'90年代は、シーケンス・フレーズの連続と手数の多いローランド808風スネアのよるドラムアレンジが常識化した年代でもある。
1996年、SPEEDのブレイクの頃になると、それは3拍目に手数を多くするように整理されてくる。思えば'50年代後半〜'60年代前半、歌謡曲にビギン、ルンバが採り入れられていた頃は1拍目裏、’60年代末〜'70年代前半のシェイク全盛時は2拍目裏がリズムの強調箇所であった。
この頃は16分音符割のアレンジに8ノリの「メロディーを乗せることの日常化も進んだ。特に'90年代半ばのEVERY LITTLE THING(ELT)などはそれをより歌謡曲寄りにしたサウンドだった。
このELTは元々はDREAMS COME TRUEの形態に範を得ているが、この種のユニットの一般化に拍車をかけた。
すなわち、ソングライティング+アレンジ+打ち込みを行う男性と女声ヴォーカルという組み合わせの歌謡曲である。
男性はギターを弾いていることが多い。
'90年代はまた、アイドルグループとしてSMAPが爆発的人気を得た。ただ、従来のアイドルグループのサウンドとは一線を画しているところがあり、それはアメリカの一流スタジオミュージシャンをバッキングに起用していることである。このサウンドづくりにはCHOKKAKU、長岡成貢、岩田雅之などのアレンジャーが貢献した。このころの'70年代サウンド再評価の気運と呼応し、洋楽志向で
自らバンド活動を行うリスナーにも大いに受け入れられた。
このSMAPサウンドの成功はその後のいわゆるジャパニーズR&Bと言われる本格派女性歌手のサウンドの一般化につながると言えよう。MISIA、SAKURA、UA(ウーア)、宇多田ヒカルなどである。若年層に教祖的な人気のあったSPEEDの島袋寛子も解散後はHIROという名でMISIA的な歌い回しの曲を発表したが、やはり背伸び感は免れなかった。
MISIAの大ヒットアルバム"MOTHER,FATHER,BROTHER,SISTER"は彼女の声域の広さを生かしながらもアルバムを通して'90年代的な若者がBGMとして聴ける構成となっている。
そして、さらに1999年、宇多田ヒカルのファーストアルバム「FIRST LOVE」が実に800万枚の大ヒットを記録することにより、このジャンルの唄法、バッキングアレンジは国民的なものになった。
彼女のソングライティングや歌い回しは当時16歳という年齢を感じさせない。
あのユーミンより早く世の評価を得たのだが、ユ−ミンの場合は花鳥風月に裏打ちされ、比喩、隠喩を駆使することで他の追随を
許さない。
大ヒットシングル、"AUTOMATIC"(宇多田ヒカル作詞作曲・西平彰編曲・河野圭(additional arrangement)、Take &speedy for Designated Hitters,L.A(rhythm arrangement))を聴いても洋楽っぽく感じるのはアレンジやバッキングの打ち込みによるところが大きい。
'90年半ば以降の定番は2拍目のウラウラ16音符キックと3拍目のキックふたつ(8分音符)、それにシンクロしたベース。
このパターンはAメロからサビに入ってもたいして変わらず、感情過多なヴォーカルと
好対象を見せる。
Aメロ、Bメロ、Cメロのつなぎに入れるお約束のシンバルはあえて打ち込みサウンド初期のようなリリースの短い音にしてある。
これが'90年代サウンドの典型であるが、あくまでも基本は'60年代に確立したスタンダード・エイトビート(いわゆるゴールデンビート)に跳ねた16分音符ノリを加えたものである。
今や、ミディアムの場合は16分音符部分が皆無であってもエイトビートのウラにシャッフル16ビートが内在しているのが常識となっている。
アルバム「FIRST LOVE」の中では「AUTOMATIC」他、数曲のイントロでサイン波系のアナログ風シンセサイザーがメロディーを奏でている。これは前述した「ルビーの指輪のイントロと同じ手法で、元々は海の向こうのR&Bが洗練されてきた1970年代のサウンドがベースになっている。
また、宇多田ヒカルはTm-♭Z-♭Y-X7(key of Em:Em-D-C-B7、Key of Am:Am-G-F-E7)を基本とする進行がお好みである。これは遠くグループサウンズ時代に日本のポップスに大量に持ち込まれた進行であったが、リズムパターンやバッキング、楽器の音色が違うので、変わった印象になるという典型例である。
サウンド全体のコンセプトやアレンジは河野圭に拠る部分が大きいと思われる。彼はサザエさんの音楽で有名な河野土洋(かわのくにひろ)氏(ヤマハ作編曲教室出身)の子息である。
* 文語と西洋音楽との融和
1998年、従来楽曲には使われなかったような抽象名詞や厭世観、文語表現を直裁的に詞に取り込むことを好むシンガーソングライターが突然登場した。
椎名林檎である。
プロモーションビデオやCDジャケットには”女”の”武器”としての”コスプレ”が多く使われ、曲名、歌詞、アルバム名にも退廃的なエロティシズムを感じさせる言葉が並ぶ。
普通、アーティスト性を前面に押し出す若い女性歌手は男性のリビドーを理解しないか、感じていてもわからない素振りをするものだが、彼女の場合はあえてそれをけしかけるかのように振る舞う。
サウンド的には1970年代に成熟したロックサウンドと、ジャズ系の音の二系統を操る。
ロック系の場合、プロデュース、編曲、ベース演奏を亀田誠治が担当する。ベースのフレーズはシンコペーション部分など、歌メロのラインとほとんど同タイミングに動くことが多い。従来のJ-POPと違い、ベースのラインだけ集中的に聴いても鑑賞として楽しめるかのような気もしてくる。JAZZ系統の場合は斎藤ネコや服部隆之の編曲による本格ジャズだが、定型的な編成ではなく、ストリングスを加えたり、長谷川きよしのギター、朝川朋之のハープ、香取良彦のヴィブラフォン・ソロなど、通常のJ―POPでは見られないフィーチャーのされ方をする。
椎名林檎の詞には、J-POP王道の「私、頑張ってるソング」がほとんどなく。わかりやすいメタファーもあまり見られず、リスナーは相当な文学性を持たないと彼女の意図を作品に見出すことが難しい。
ただ、デビューアルバム「無罪モラトリアム」収録の「茜さす 帰路照らされど」では詞の手法もサウンドにもユーミンの影響の片鱗を見せ、わかりやすさへの配慮を見せている。
彼女の名を一気に大衆に知らしめたヒット曲「歌舞伎町の女王」。マイナー特有のブルーノート(♭5th)をさりげなく入れたこの曲には他に類を見ない特徴を持っている。
全音上への転調である。
Bmで始まるこの曲は定番のクリシェを採り入れている。Bm→BmM7→Bm7→BmM7である。このクリシェは内声を動かす場合とベースラインを動かす場合があるが、ベースラインの場合はB→A♯→A→G♯と下がってBm(onG♯)、つまりG♯m7-5(♯Ym7-5)のサウンドが現れることが多い。この曲の場合1コーラスがおわったところで、それをG♯7にしてしまって、キーC♯mのドミナント7thと見なし、スムーズにBm→C♯mへ転調するようになっている。
聴いていると、単純に盛り上がるだけでなく、転調後の4小節位の間、「私の日常はこれでいいのか?」的な、それとない”やるせなさ”というか、”もだえ”の感情が残る演出である。
C♯mになったあともBmのときと同じモチーフ、つまり移調されたメロディーが使われている。普通、この場合も単に「転調」という言葉が使わるが、筆者は「移転調」という表現を提案したい。
盛り上げるための半音上への移転調は古今東西枚挙に暇がないが、全音上への例は極めて少ない。
日本のポップスでの例では遥か遠い昔、「廃墟の鳩」(1969年、タイガース歌、山上路夫作詞、村井邦彦作曲)〜G→Aに移転調〜、「白い色は恋人の色」(1969年、ベッツィー&クリス、北山修作詞、加藤和彦作曲、若月明人編曲)〜C→Dに〜移転調がある。
1969年はグループサウンズ失速の年であり、なんとか音楽界の閉塞感から抜けだそうとした気運と無関係でないであろう。1990年代にはMr. CHILDRENの「Tomorrow Never Knows」(1994年、桜井和寿作詞作曲)〜C→Dに移転調〜がある。メージャーで、全音上への移転調は、希望を持った未来を感じさせるが、前述のマイナーの場合は全く受ける印象が違う。
そして、口笛の間奏も他にあまり例がなく、技術的に意外に難しいが、遥か遠くGS時代に「青い渚」(1966年、ジャッキー吉川とブルーコメッツ)~口笛は井上忠夫~という傑作がある。
椎名林檎は四枚目のシングル、「本能」(椎名林檎作詞作曲、1999年)でも全音上への転調(Dm→Em)を使っており、この独特の雰囲気を相当気に入っているようである。
また、彼女は幅広いジャンルのミュージシャンとコラボレーションが多く、ソロ名義のアルバム以外にもロックバンド、東京事変のヴォーカルとしての活動や、映画「さくらん」の音楽担当などの活躍がある。
特に「さくらん」では斎藤ネコ率いるオーケストラとのコラボレーションで、主題歌「錯乱terra ver.」(斎藤ネコ編曲、2006年)は日本のポップス史上空前絶後、驚天動地のサウンドを作り上げている。この曲で久々に躍動感のあるピアノソロを聴いたと思い、パーソネルを見ると市川秀男であった。筆者が1960年代にジョージ大塚トリオでの彼のリリカルなジャズ・ピアノに魅了されたときの感覚が今、顕在化したかのように感じた。
椎名林檎はマイナーの曲でメロディーを9th音(Amキーの時はB音)で終わらせるのを相当好んでいるが、この曲もマイナーの9thを多用する。
ストリングス付のフォービート・ジャズに彼女の唄を乗せたアレンジで、ジャズ・テイストの日本の歌としては、今後30年、これを超える作品は出現しないと思われるほどである。
いったいこれがJ-POPに入れていいのかなどと思う人もいるかもしれないが、まさに”GENRE MEANS NOTHING TO US”(*)という言葉が適切であろう。
(*)私たちにジャンルは無意味だ
* あくなき洋楽化への追求
本稿では一貫してオーケストラ・アレンジからコンボ・アレンジへのシフトと複雑化が日本ポップスのあくなき洋楽化へのアプローチを導いたと述べてきたが、21世紀を目前にした2000年、究極のユニットがメージャーデビューした。前述したように1980年代後半からサウンド的に自己完結しないバンド〜つまりドラムスやベースはサポートメンバーや打ち込みに任せるタイプのグループ、新たな言葉でユニットが台頭してきたが、ここで現れたのがLOVE PSYCHEDERICOである。
それまで複雑化の一途をたどったリズムセクションに逆行し、原点にもどったドラムパターンと単純なギターコード・ストロークの上に乗っているのはどこかで聴いたことがあるようなキャッチーなリフ。日本のポップスのメインストリームにおいて、最初にリフありきで曲を作る手法は遠くGS(グループサウンズ)ブームの黎明期、スパイダースの「バンバンバン」あたりに端を発するが、実例は数少ない。そして巷間の瞠目を引いたのは英語と日本語歌詞の見事な融合。メンバーのKUMIは巻き舌発音がスムーズな帰国子女で相方のNAOKIとは
1997年、青山学院大学のサークルで知り合っている。元々、日本語の英語風発音はサザンオールスターズの桑田佳祐によってJ-POPメインストリームに持ち込まれたものであることは誰もが知るところであるが、彼らもまた"青学"のサークルメンバーである。これは神のみぞ知るDNAによる仕業かもしれない。筆者がKUMIの歌声を初めて聴いたのは体調を崩し熱を出して臥せっていたとき。朦朧とした中で聴いた彼女の歌声はしばらくの間、洋楽だと思っていたほどである。1st シングルのタイトルが"LADY MADONNA〜憂鬱なるスパイダー"であり、2nd シングルの"Your Song"の中にはnowhere land nowhere
girl というフレーズがあり、彼らもまたBEATLESへのリスペクトを抱く。
ただ、欲を言えば、英語詞部分にPAUL やJohnのような美しい韻がほとんどなく、その点が今後の課題であろう。
* コーラス・グループの台頭
筆者の少年時代、夢の世界だった21世紀に入り、日本のポップスシーンではまた別の潮流が息を吹き返した。
長い間低迷していた男声コーラスグループの分野である。
2001年、突然大ブレイクしたのが早稲田大学のサークルメンバーを中心とするゴスペラーズである。それまで欧米に比べ日本のポップスの弱点であったハーモニーの希薄さに一石を投じたのがこれ以後に現れるケミストリーやラグ・フェアなどのコーラス
グループである。しかしそれでも、ビートルズを初めとする演奏しながら強烈にハモる
欧米POPSの覇者をリアルタイムで経験した世代にとっては、物足りなさは禁じ得ない。
* 周期的なバンドブーム
1960年代のヴェンチャーズ、ビートルズ以降、我が国でも若者が数人編成のバンドに憧れるブームが周期的に起きている。
それによって、レコード、CDの需要だけでなく、使われている楽器の売り上げも
伸びたのだ。
2009年にはそれまでと違った形でガールズ・バンド結成に追い風が吹いた。テレビ・アニメの「けいおん!」である。アニメの中で演奏される楽器の細部や演奏する人の描写がたいへんリアルなことで評判を呼んだ。
このアニメのヒットと同時期に人気が出たのがSCANDAL。このグループもアニメ"BLEACH"のテーマ曲、「少女S」でブレイクした。女子高生風制服での演奏姿は新鮮であった。
「少女S」のAメロのコード進行は遥か昔、ブルーコメッツの「青い瞳」のイントロとほぼ同じである。キーは違うがTm-V-W-Y(key::D♯m-F♯-G♯-B)。三度音を省略して、いわゆるパワーコード的にかき鳴らすと、さらにロック的になる進行だ。
また、イントロは「青い瞳」のAメロ最初の
Tm-W(7)(D♯m-G♯(7))とほぼ同じである。
そして、曲後半になって半音上に転調するところまで同じ手法。「少女S」のイントロの前にはスネアが一発入っているが、この際
「青い瞳」と同じくドラムソロにでもしてほしかった。
それにしても、今や、特に目新しいわけではないが、1966年、日本のバンドサウンド確立のきっかけとなった「青い瞳」のコード進行がガールズバンドのサウンドにDNAのように(たぶん[)無意識に使われていることに深い感慨を覚える。
* 日本のポップスの来し方、行く末
約40年、私が日本のポップス・アレンジについて感じてきたことを徒然なるままに書いてみたが、様々な現象に影のように見え隠れするのがやはりあのBEATLESの足跡である。
それはまるで今後も未知の音楽の世界に進んでいく我々が見る、過去と未来を超越した火の鳥の幻影のようでもある。
参考文献
萩原健太 1983「はっぴいえんど伝説」シンコーミュージック
黒沢 進 1994「日本ロック紀GS編」シンコーミュージック
稲増龍夫&日本ポップス中毒の会 1996「歌謡曲完全攻略ガイド」学陽書房
1996「レコードコレクターズ」第15巻第10号
1998「歌謡ポップス・クロニクル」アスペクト
北島一平・中村俊夫 1999「みんなGSが好きだった」扶桑社
黒沢 進 2007「黒沢進 著作集」
近田 春夫 「考えるヒット」(週刊文春 連載)
竹村光繁 2001「宇多田ヒカルの作り方」
鴨下信一 2006「誰も戦後を覚えていない〜[昭和20年代後半編] 文春新書(文藝春秋社)
高護(他) 2008「歌謡曲 名曲名盤ガイド」(シンコーミュージック)
岡賢一 2002「流行歌(はやりうた)は人を救えるか?」(アミューズブックス)
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