COLUMN
アレンジは世につれ、世はアレンジにつれ
〜私的・日本のポップス60年史
 


 1    まえがき
更新日時:
2020/07/16
 
本稿では日本のポップスの規範を確立したサウンドの分析と、その変遷に重点をおいている。従って、興味深い音であっても、一過性のもの、奇をてらっただけのもの、後年になって大衆化されなかった音には触れない。通向けの評論と違い、ヒットしたことも評価のひとつなのである。
 
 

 2    日本のオリジナルポップス黎明期(1)
更新日時:
2020/07/16
  1966年2月、筆者が高校入試を控えた紅顔の美少年の頃、画期的な曲が現れた。
ジャッキー吉川とブルーコメッツの"青い瞳(英語盤)"(橋本淳作詞、井上忠夫作曲)である。この曲は日本における弾きながら歌うバンド曲の原型とされている。(この曲の詳細な分析は本ホームページの別稿に譲る。)が、それ以前に歌謡曲の中で、洋楽サウンドへの志向が見られた曲がいくつかある。
 
第二次世界大戦敗戦直後の昭和20年代(1945年〜1954年)は復興に向かって立ち上がる人々の気持ちを癒すため、明るい歌が多かったのはよく知られたことである。
その代表とされるのが「りんごの唄」(万城目正作詞、仁木他喜雄作曲、並木路子、霧島昇・歌)
や「青い山脈」であり、「東京ブギウギ」である。
 
優等生的な明るい歌とは対照的に、「東京ブギウギ」(鈴木勝作詞、服部良一作曲)はアメリカ文化をうまく吸収した曲で、その後の日本のポップスにおける飽くなき洋楽化への試みの端緒である。
この曲は同時期の歌謡曲と比較してかなりのリズム重視である。この頃の録音は当然"一発"録音のためドラムはかなりのOFFであり、一定のビートは主にウッドベースの音によってキープされているように聞こえる。
ブルーノートはサビだけに現れる。
ブルーノートとはメージャーキー(長調)において、第三音(ミ)と第七音(シ)が半音近く下がっているスケールのことである。(時には第五音(ソ)も下がることがある。)
 
こうした単に明るいという印象だけの曲とは一線を画す洒落た曲が1954年(昭和29年)の
「雪の降る町を」(内村直也作詞、中田喜直作曲、高英夫歌)である。
 
http://www.youtube.com/watch?v=tPSEGXGqE78
 
昭和20年代後半(1950年〜1955年)はクラシックの素養をもった歌手のヒット曲が目立ち、この曲もクラシック的歌唱であるが、曲自体は非常にポップス的である。
当時のジャズ系バラードにうまく乗るメロディーが途中で同主調(イ短調→イ長調、Am→A)に転調する部分が非常に洒落ている。
メジャー・キー(長調)になった後はところどころにノンダイヤトニック・コード(クラシック和声学では準固有和音)を入れ、2コーラス目の初めでマイナー(短調)に戻るための心の準備をしている。
そして最後に付加されたフレーズで完全にマイナーに戻ったと思わせて、最後の音だけ同主長調のAコードにして終わらせている。
心にくい演出である。
ところどころに登場する三連符メロディーも効果的である。
 
この曲は教科書に掲載されたことにより覚えた人が多いため、唱歌や童謡に分類されることが常で、作曲者がクラシック系の人だったこともあり、歌謡曲としては紹介されない。
しかし、元はといえば、ラジオ歌謡として発表された曲。
和製ポップス〜J-POPの垢抜けた曲作りのルーツとして、後年まで評価されるべき曲だと思う。
ただ、この伴奏は終始、歌メロをオーケストラが同じメロディーをなぞっている。当時の歌謡曲のアレンジはこれが普通だったとは言え、この点だけは残念である。
同主調への転調を持つ曲が大ヒットした例はその後もあまりない。8年後、吉永小百合/和田弘とマヒナスターズによる「寒い朝」(1962年、佐伯孝夫作詞。吉田正作編曲)が目立つ。
この曲は北風を思わせるバックのストリングスが際立っているが、基本的には当時の歌謡曲アレンジの域を脱し得ない。
伴奏アレンジの洗練化は同じ頃、中村八大、宮川泰の両名に委ねられていたと言えよう。
 
逆にメージャーからマイナー同主調への転調はヒット曲ではさらに使用例が少なく、渡辺美里の「サマータイム・ブルース」(1990年、渡辺美里作詞作曲、奈良部匠平編曲)が目立つ。
このタイプの転調はうまく処理されていれば、たいへん洒落たサウンドとなり、筆者の好きなパターンである。
「サマータイム・ブルース」では落ちついたサビになだれ込む際のストリングス・フレーズが秀逸で、晴天の空が一気に流れてくる雲に覆われ、一時的に陰る様子が目に見えるようである。
(つづく)
 

 3    日本のオリジナルポップス黎明期(2)
更新日時:
2020/07/16
 
 
 そもそも、1950年代(昭和25年〜34年)から1960年代(昭和35年〜)初めまでは和製の洗練されたポップスがほとんどなかった。主にアメリカンポップス〜今で言うオールディーズ〜に原詞をかなり意訳した日本語訳詞をつけて歌われる和製ポップスが大量生産された。
そういう状況下で、ジャズの経験を生かして洋楽風自家製和製POPSを創作したのは、中村八大、宮川泰の両巨頭である。
 
1961年の"上を向いて歩こう"(永六輔作詞、中村八大作編曲)はどういうわけか1963年に全米ヒットチャートのトップに輝く。このときは「ついに和製POPSが輸出された」と騒然となったが、サウンド的にはアメリカのビッグバンドである。歌詞の異国風味は別として、アメリカ側から見ると自国好みのサウンドが逆輸入されたわけである。サビにサブドミナントマイナー(Key:GにおけるCm)が出てくるあたりは"DIANA"(1958年,Paul Anka)に見られるのと同一手法である。
 
"上を向いて歩こう"は1961年の4月8日から始まったテレビ番組"夢で逢いましょう"(NHKテレビから生まれた曲である。小粋な画像と演出で後世に語り継がれる番組である。この年の4月1日、朝日新聞の番組欄は前日までラジオが上部、テレビが下部だったのがこの日から逆となり、テレビ時代の幕開けを象徴している。ちなみにこの年、テレビの世帯普及率は前年の40%台から60%強に跳ね上がっている。
そして、1963年には名アレンジ曲、ザ・ピーナッツの"恋のバカンス"(岩谷時子作詞,宮川泰作編曲)が大ヒット。これも若干中近東風のビッグバンドサウンドが洋楽嗜好のあるリスナーを満足させたが、1965年、ついに8ビート、英語詞による和製ポップスが現れる。エミージャクソンの"涙の太陽"(HOT
RIVERS作詞,早川博二作曲)である。
イントロの印象的なフレーズ。テケテケ〜のエレキサウンド。。。バッキングの新鮮さは当時としては比類を見ない。
しかし、Aメロのハーモニーは短調の主要三和音(Key:Gm:Gm,Cm,D7)のみであり、後述するハーモニーの目新しさはあまり無い。8ビートそのものにも、若干のぎこちなさがあり、間奏のエレキギターもアドリブ終結部分に中途半端さが見られ、歌謡曲の洋楽化の黎明期を物語る。
このバッキングは当初、スタジオミュージシャンを使ってレコーディングしたそうだが、迫力に欠けるとのことで、再録音となった。そこで、クレージービートルズが起用され、その演奏はエミージャクソンからも大絶賛されたと同バンドの岡賢一(Gt)が自著で語っているが、ジャッキー吉川とブルーコメッツの録音が採用されたとの説もある。
(つづく)

 4    日本のオリジナルポップス黎明期 (3)
更新日時:
2020/08/01
同じ頃、田辺昭知とスパイダースが発表したのが"フリフリ"(かまやつひろし作詞作曲,田辺昭知編曲)。評論家たちは三々七拍子サウンドと呼んだが、実際は四つ打ちリズムで四拍目を休符にしただけであった。この1965年の二曲は和製POPS一般化の前兆を見せてくれたが、しかし、"ダークな背広にブーツを履いて"歩く"フリフリ"は先端的な若者の支持を得たと言う側面はあったものの、一般の歌謡曲愛好家には抵抗があり、大ヒットとまでは行かなかった。
また、同じくスパイダースの傑作バラード、「ノーノーボーイ」(かまやつひろし作詞作曲)でもリムショットのスネアが1,2,3と三拍打って、四拍目を休んでおり、「フリフリ」との共通点が見られる。
 
1964年から数年間はBEATLESが音楽的、風俗的言論的に既成概念を打破した時代である。特にBEATLESが来日した1966年はターニングポイントの年だ。"青い瞳(日本語盤)"(ジャッキー吉川とブル−コメッツ)が英語盤に続いて発表され、我が国における8ビート・バンド楽曲一般化の嚆矢となったのである。
 

 5    グループサウンズによる日本のポップス革命
更新日時:
2020/08/03
 こういった弾きながら歌うバンドは1967年頃、マスコミによってグループサウンズ(GS)と名付けられた。それまでの歌謡曲との大きな違いはマイナー曲のコード進行に現れるメージャーコードである。GSで多く見られるのが♭Y(Key of AmにおけるF)、続いて♭Z(同じくG)、♭V(同じくC)である。これらはマイナー特有の湿っぽさを排除し、またT→♭Z→♭Y→X7(Am→G→F→E7)は無国籍的な作詞との相乗効果で異国情緒を充分に醸し出した。ブルーコメッツのヒット曲でよく聴かれるエンディングだけ同主調のメージャーコードもインパクトがあった。最も有名なのはブルーシャトウBmにおけるB(メージャー)で、クラシック音楽理論による「ピカルディの3度」を単純化した手法である。
 
GSメンバー自身による作品で、橋本淳・井上忠夫コンビとは違ったテイストで注目されたのがスパイダーズの かまやつひろし
作の曲である。ジャズメンを父に持つ彼の
センスは通受けするものであったが、一般的な再評価はむしろ後年になってからであろう。"バン・バン・バン"(作詞作曲共本人)などのリフで押し通す曲以外にも"あの時君は若かった"(菅原芙美恵作詞)という名作を産んだ。この曲の最初のコード進行はDm7-G7-Cでkey of Cの弱進行である。
これに乗せるメロディーラインは純日本人の感覚ではなかなか作れない。そして、エンディングの半音階展開。これをOKとしたレコード・ディレクターのセンスと決断も評価に値する。
そして、グループサウンズの標準リズムであるスタンダード8ビート(ヒトによってはゴールデンビートと呼ぶ)がその後の歌謡曲の標準リズムパターンにもなっていく。
ドラムのハイハットは八分音符きざみ、スネアは2拍4拍、バスドラはドーン・ド・ドン、ベースもバスドラと同じという基本パターンである。音楽への目覚めが遅かった私にとって、これ以前のパターンは全て乗りにくい。(つづく)
 
 



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