COLUMN
アレンジは世につれ、世はアレンジにつれ
〜私的・日本のポップス60年史
 


 6    セッション・アレンジへのアプローチ
更新日時:
2020/08/05
 
 このGSがわずか3年間のあだ花で終わったというのはよくマスコミで言われることだが、いろいろな意味で日本のポップス界の革命に寄与し、発展的に解消したと見たい。
専属作家制からフリー作家への世代交代、コンボ・バンド編成による伴奏、前述したエイトビートの定着、日本語ロックへのアプローチなどである。
GS時代にデビューした職業作家からは筒美京平(作曲)、村井邦彦(作曲)、阿久悠(作詞)、GSメンバー自作作家からは井上忠夫(後の大輔、作曲)、加瀬邦彦(作曲)などがその後のJ-POPサウンド形成に大きく貢献している。
この頃に曲を作り始めた筆者は1969年からエレックレコードの作曲通信講座でコード進行の基本を学んだ。
フォークはロックへ、ロックはジャズへアプローチするのが進化とされていた時代だった。
(つづく)

 7    魅惑のメージャーセブンス
更新日時:
2020/08/06
 
 1968年に東芝音楽工業(後の東芝EMI〜EMIジャパン)が立ち上げたエキスプレスレーベルによるカレッジポップス・シリーズはグループサウンズとはまた違った清涼感のあるサウンドを世に出していった。
1971年、赤い鳥は村井邦彦作曲の「忘れていた朝」(山上路夫作詞、川口真編曲)を発表。1小節目のじゃらーんというメージャー7thサウンドは新しい時代の到来を予感させた。このメージャー7thコードはルート音がC(ド)の場合、通常のCコード(ドミソ)の上にB(シ)音を重ねるもの。波間にたゆたうヨットといった洒落た音である。
ダイアトニックコード(楽譜上、臨時記号がつかないコード)の中ではTmaj7(key of CでCmaj7)とWmaj7(Fmaij7)が使われる。
このコードはビートルズなどのリバプールサウンド系にはほとんど登場せず、ボサノヴァ系の曲に多用される。力強さとは対極にある音だからであろう。
一般のリスナーには後にエリック・サティの
著作権保護期間が切れた1985年頃に「ジムノペディ第1番」のイントロが巷間に溢れかえったことでお馴染みである。
 
(つづく)
 
 
 

 8    *洗練されたアレンジの大衆化
更新日時:
2020/08/08
 村井邦彦(作曲)と川口真(編曲)のコンビは寡作ではあるが、洗練された曲を後世に残している。
東京芸術大学楽理科・作曲科出身の川口真は元々クラシック音楽家を目指していたが、在学中に内藤法美(越路吹雪の夫)バンドのピアニストがきっかけで、芸大から離れ、ポップスが本業になっていく。
歌謡曲アレンジャーとしてのデビューはかなり早く、1963年の「見上げてごらん夜の星を」(永六輔作詞、いずみたく作曲、坂本九歌)というキャリアの持ち主である。
 
 村井邦彦作曲-川口真編曲のコンビは「エメラルドの伝説」(1968年、ザ・テンプターズ)が最初で、サビ前でのV7sus4−V7(key:Dm:A7sus4-A7)進行はその後、大流行となった。
この曲ではそのA7の次に平行長調のトニック、Fに進行することにより、さらに新鮮さを出している。つまり、Dm(F:Ym)の代理としてF(T)を使うということで、メジャー曲の定石の逆を使っている。
 この転調手法は後の「北国行で」(1972年、山上路夫作詞、鈴木邦彦作編曲、朱里エイ子歌)でも使われている。(同じくKEY:Dm→F)
 
 その後、このコンビは「ダニエル・モナムール」(1969年)、「経験」(1970年)(共に安井かずみ作詞・辺見マリ歌)、「忘れていた朝」(1971年、後述)と次々と洒落たサウンドを作り出していく。
「経験」ではエイトビートにもかかわらずジャズっぽいピアノのバッキングやマリンバの
フレーズが新しい音作りを見せている。
 イントロ、エンディングのマイナークリシェ(Bm-BmM7-Bm7-Bm6)は文字通り“常套手段”だ。
ザ・サベージの「渚に消えた恋」(1967年、佐々木勉作詞作曲)でAm-AmM7-Am7-AmM7が使われていたものの、多くのリスナーにとってはこの「経験」がきっかけで耳に馴染むようになったような気がする。
 
http://www.youtube.com/watch?v=X5PvZNVScwE&feature=fvwrel
 
(つづく)

 9    *付加的後接メロディーの草分け〜吉田拓郎
更新日時:
2020/08/09
 1970年代はフォーク系シンガーソングライターが歌謡曲界に進出した時代である。常に新しい感覚を求めるレコード業界はフォークシンガー特有の弾き語り風の楽曲に目をつけたのだ。「弾き語り」とは弾きながら歌うことを指すが、どちらかというとメロディーラインよりも歌詞の内容を重視した作風は散文を読み上げているような歌で、文字通り「弾き語り」と言える。
吉田拓郎、谷村新司、小椋圭などである。
この人たちの作風について、よく言われるのが「それまでの一音符に一文字主義から脱した作り方」という論評である。しかし、それは正確な見方に当たらない。元々、この系統の作家に音符という概念が希薄であろうことは明確だからだ。それ以前の韻文を前提とした詞ではなく、敬体(です、ます形式)をも使った散文とギターのコードをつま弾きながらのメロディーが同時進行で作られる。
このようなフォーク系の曲を載せた楽譜集には十六分音符が羅列されているが、本来はそれほど細かく表記する必要はない。
そのメロディーに倚音、いや刺繍音などによるテンション・リゾルブはほとんどないので、細かく音符にする必要はあまりないのだ。極端に言うと、同じ音程が続き、息継ぎが無い間は音符ひとつでもよいはずだ。
まあ、楽譜表記の考え方や必要性論議は本質としてはあまり重要ではないのだが、これらの作家が歌謡曲界に新しい空気をもたらしたことだけは確かである。
中でも、吉田拓郎による「付加的後接メロディー」(注*)は特に斬新であった。
 
                注*「付加的後接メロディー」
                 ・・・この用語は筆者が命名した言葉であり、音                                   楽理論の世界で認知されているわけではない。           
   
 
吉田拓郎は1972年の「結婚しようよ」(吉田拓郎作詞・作曲・歌)の大ヒット後、楽曲提供依頼が殺到し、1973年、ついに由紀さおりが歌う「ルームライト(室内灯)」(岡本おさみ作詞・吉田拓郎作曲・木田高介編曲)で歌謡曲界への楽曲提供の端緒となった。
吉田拓郎は元々、アレンジャー的なサウンドづくりを行わない人ではあるが、メロディーの構成の点ではユニークな嗜好を持つ人である。
楽曲のひとつのまとまり、つまりコーラスが一通り終わった後、予期せぬメロディーが登場させるのが好きなのだ。1980年代後半以降、楽曲構成の拡大が進み、A-B-C-D-Eというように次から次へと新たなモチーフが出て来る曲が普通になったが、吉田拓郎が好むのは「予期せぬ新たなモチーフ」である。明らかにそれまでの一部、二部、三部形式などという理論では説明できない構成である。
この予期せぬメロディーを筆者は「付加的後接メロディー」と呼ぶ。平たく言うと、「とってつけた感じ」とでも言えばよいだろうか?
(つづく)
 

 10    付加的後接メロディーの草分け〜吉田拓郎(2)
更新日時:
2020/08/24
「ルームライト(室内灯)」ではA-B-Cという構成のメロディーが終わった後、「そのせいじゃなく 疲れてるみたい」という唐突な2小節のメロディーが現れる。
コード進行も♭Y(key:B♭)であるG♭(サブドミナントマイナーE♭mの代理)を突然登場させ、意外性を出している。
 
吉田拓郎は1970年、エレックレコードから「古い船を動かせるのは古い水夫ではないだろうw/マークU」という意味深長なタイトルのシングル盤でデビューした、エレックレコードは作詞作曲の通信講座を母体とする会社で、今でいうインディーズである。実は筆者は大学受験浪人中だと言うのに、この通信講座の会員であった。
このB面の「マークU」(吉田拓郎作詞作曲)では、A(8小節)−A(8)−B(4)−A(8)の2コーラスの後、間奏(=A)があり、その後、ABAでひと通り歌が終わったと感じさせたあと、付加的に初めて出るモチーフのメロディーが8小節(つまりC)が歌われ、曲が終わる。AABAの部分はkey:Emであるが、Cの8小節では平行調のGメジャーとなって新鮮さを出している。
 
さらに1972年の「たどりついたらいつも雨ふり」(吉田拓郎作詞作曲・モップス歌)では
A(8)−A(8)−B(12)−間奏(4)の後、初出のC(4)−間奏(8)があり、その後、最初のA−A−B
を繰り返した後、さらに初出のDが出て来る。
この曲の場合は全体にキーはA(メジャー)に固定されているが、D冒頭部分の同音連続はそれに至るまでのこの曲の雰囲気を一新した感じを受ける。
これら三曲は「楽曲構造の基礎」の教え通りでなければいけないという保守的な考え方では成立しない作りであり、吉田拓郎楽曲起用を決めたレコード・プロデューサに拍手を送りたい。
 
1975年には、かまやつひろし歌による「わが良き友よ」(吉田拓郎作詞作曲)というわかりやすい曲が大ヒット。この曲は楽曲構造的には特徴はないが、かえってそのレトロ感が受けたようだ。筆者の大学卒業式にはサプライズで、かまやつひろしが登壇し、この曲を歌ったので、個人的には印象深い。
これが契機となったのかどうかわからないが、この後、キャンディーズへの楽曲提供などの活躍場面では吉田拓郎独自の感覚による「付加的後接メロディー」は姿を消していく。
しかし、後年当たり前になっていくA―B−C−D−Eなどという楽曲構造拡大時代の草分けであったことは確かだ。
 
(つづく)
 



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