(前回からつづく)
「クール・ビズ」は政府が提唱した言葉としては見事に普及に成功した造語だ。普通、お上の造語には反発を覚えるものだが、小泉さんや小池さんのファッション性も功を奏したに違いない。
その後、徐々に夏季にはネクタイ不要の風潮が高まり、2011年東日本大震災後の節電意識高揚がきっかけで一気にノーネクタイ化が進んだ。
しかし、昭和30年代の日本映画などを見ると、儀式の場や要人は別として、元々真夏は開襟シャツのサラリーマンが多かったことがよくわかる。
その後、欧米に追い付き追い越せの高度経済成長の過程で、平サラリーマンの恰好も気候を無視して欧米並みにする風潮が生まれたのだ。
さらに冷房装置の普及やサラリーマンのファッション意識の高まりで、組織人間のネクタイ着用が半ば義務化されるようになったと思われる。
そうだ。ネクタイ着用は元々特別な儀式の場や立場での行動なのだ。
さて、筆者は元々、ネクタイや上着強制反対論者であるが、ノーネクタイ・ノー上着押し付け抵抗論者でもある。
ただ、個人的に冷房に弱いこともあり、会社に勤めていたころは真夏でも事務所にジャケットを常備していたものだ。店舗や警護目的などの場合は一般人との識別のため、制服が強制されるのは仕方ない。しかし、それ以外の場合は元来、ネクタイはアクセサリーの一種なのだから、装着はファッション性とある程度の社会的規範のバランスで個々人が判断すべきである。
また、真夏は「ネクタイはずしただけスーツ姿」よりは、上着なしのワイシャツ姿の方がかえってすがすがしくて好感度が高い印象を受けたこともある。
そもそも、会議や議会は儀式とは違うはずだ。「儀式」と違って、会議や議会は議論を優先するところだから「言」(ごんべん)があるのだ。
また、クール・ビズ期間(主に6月〜9月)も融通を持たせるべきだ。筆者の中学高校時代、衣替え=夏服への転換が6月1日に一斉という強制だったのには反発を覚えていた。
(つづく)
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