1971年、筆者はジャズギタリスト増尾好秋への憧れから早稲田大学モダンジャズ研究会に入って半年で挫折した。しかし、複雑なコード進行やテンションの使い方に興味を持ち、ヤマハ作編曲教室(林雅諺講師)の門をたたいた。時は折からCHICAGOやBLOOD,SWEAT&TEARSのブラスロックが最新サウンドとされていた。一方、日本ポップス界ではグループサウンズ・ブームの商業的な成功に違和感を覚えるミュージシャンやレコード会社、ファンが日本の新しいロック、ポップスシーンの創造を始めていた。
また、グループサウンズ(GS)の商業主義に背を向けた異才、奇才によるエイプリルフール〜はっぴいえんど〜キャラメルママ〜ティンパンアレイの流れも1970年前後の重要なシーンである。
これらのグループに所属したミュージシャンは極めて短い間に細胞分裂や増殖を繰り返しながらも、日本のポップス界に貴重な一石を投じた。
1969年に結成されたエイプリルフールに対しては当時のミュージックライフ(1969年10月号)が「〜今まさに日本のGS界に〜」新星が登場したかのような記述をしたが、(*)明らかにそれは歌謡曲化するGSとは別の動きであった。
(*)萩原健太 1983「はっぴえんど伝説」(八耀社)より
エイプリルフールに在籍した細野晴臣、松本隆が大滝詠一、鈴木茂と結成した”はっぴいえんど”。。。この四人の全員が後年になって、歌謡曲の進化に多大な貢献をしたのは特筆すべきことである。
はっぴいえんどの二枚目のアルバム、「風街ろまん」は「日本語をロックに乗せる試みに大きな貢献をした」ことになっている。確かに収録曲はベース指定コードの多用等、新しいサウンドを追求しているが、その日本語がきれいにメロディーに乗っているとは言い難い。後年の評論家がこのアルバムに対してステレオタイプな論じ方しかしないのは残念である。
むしろ、このアルバムは日本的情緒の見直しによる日本のポップスの脱皮に成功していると言える。それまでの日本の歌が作詞も作・編曲も西洋的目新しさにより進化しようとしてきたことに対するアンチテーゼなのではないか。
これは視点こそ違え、後年の椎名林檎の方向性と共通する。
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この後、細野は鈴木茂、松任谷正隆、林立夫を誘って、キャラメルママを結成し、自らが表に出るというよりは新しい時代のポップス伴奏を作り出していく。
細野は、後述する後藤次利(サディスティックミカバンド)と共に、地味な存在だった歌謡曲におけるベースという楽器の存在を大きな変えた。それまでは定型的な演奏を強いられた
歌謡曲におけるベースをドラムとの共同作業によるリズム作りというジャズ的手法によるアレンジに進化させたのである。
1970年以降のヘッドアレンジでのスタジオ録音にはマスターリズムと呼ばれる譜面を使う。
ビッグバンドのような各パート全てが指定音符という形式ではなく、クイ(アンティシペーション)、ブレイク、リズムのキメ(セクションとよぶことも多い)以外のほとんどをミュージシャンのセンスに任せるのである。
(つづく)
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