COLUMN
アレンジは世につれ、世はアレンジにつれ
〜私的・日本のポップス60年史
 


 11    和製ボサノヴァ・ポップス
更新日時:
2020/08/25
 
 1970年代はまた、ボサノヴァのリズムをとり入れた佳曲が目立つ時代である。
荒井由実作詞作曲の「あの日に帰りたい」(1975年、松任谷正隆編曲)。この曲がドラマ主題歌(TBSテレビ「家庭の秘密」)になったことで”通”以外の一般大衆に知られるようになった。ボサノヴァを新しく解釈したアレンジが素晴らしい。
ギターのボサノヴァ刻みに半速感でドラム(林立夫)を加えている。通常のボサノヴァのリズムにビートを2倍に伸ばした感じのドラムだ。スネアはボサノヴァ特有のクローズド・リムショットではなく、ベースの刻みと合わせて、全体を16ビート的にとらえている。
曲の中で、ドラムが決してうるさくなっていないのが素晴らしい。
 
これに先立つ1968年、森山良子が歌う「雨あがりのサンバ」(山上路夫作詞、村井邦彦作編曲)は和製ポップスでの本格的ボサノヴァとしては初の曲ではないだろうか。元々、「小さな貝がら」のB面扱いで世に出たのだが、本稿では例外的にこのB面曲を扱う。メロディーライン、アレンジ、ストリングスのラインなどの演奏のすべてが”ボサノヴァ”している。当時は日本人のリスナーがこの曲を聴くレベルに達していないと判断されたためか、B面とされたが、今日でも高い評価をしたい曲である。
この1968年は村井邦彦が出世作「エメラルドの伝説」(なかにし礼作詞、村井邦彦作曲、川口真編曲)を発表した年でもある。
後に発売された「森山良子オリジナルベストヒット・コレクション」(2002年)にはA面曲を差し置いて収録されていることからも、森山良子本人や関係者の評価が高いことがうかがわれる。
 
村井邦彦は翌1969年には、「美しい誤解」(安井かずみ作詞、村井邦彦作曲、小谷充編曲、トワ・エ・モワ歌)という傑作も発表している。そして同年、ピンキーとキラーズの第2弾として発表された「涙の季節」(岩谷時子作詞、いずみたく作編曲)はボサノヴァのリズムを借りていたものの、メロディーラインは歌謡曲然としていた。今陽子の歌唱力は評価できるが、1950年以降の歌謡曲作りの定石となった
「エキゾティックなリズム名を売り物にした曲」の域を脱しえなかった。
 
村井邦彦は同じ1969年に「別れのサンバ」(長谷川きよし作詞作曲)の編曲も担当している。本格的なボサノヴァギターに乗せたこの曲は旋律が"遠慮"しているきらいがあるが、村井は「長谷川きよしのギターのベースラインを生かすために楽器のベースを使わなかった」と述べているそうだ。(注*)
 
(注*)朝日新聞2012年7月14日付「うたの旅人」
この曲における長谷川きよしのギターテクニックは卓越している。村井の仕事はアレンジというよりもプロデュースという観点に拠る意味が大きいと思う。
 
(つづく)

 12    セッションアレンジの勃興
更新日時:
2020/08/26
 
 1971年、筆者はジャズギタリスト増尾好秋への憧れから早稲田大学モダンジャズ研究会に入って半年で挫折した。しかし、複雑なコード進行やテンションの使い方に興味を持ち、ヤマハ作編曲教室(林雅諺講師)の門をたたいた。時は折からCHICAGOやBLOOD,SWEAT&TEARSのブラスロックが最新サウンドとされていた。一方、日本ポップス界ではグループサウンズ・ブームの商業的な成功に違和感を覚えるミュージシャンやレコード会社、ファンが日本の新しいロック、ポップスシーンの創造を始めていた。
 
 また、グループサウンズ(GS)の商業主義に背を向けた異才、奇才によるエイプリルフール〜はっぴいえんど〜キャラメルママ〜ティンパンアレイの流れも1970年前後の重要なシーンである。
これらのグループに所属したミュージシャンは極めて短い間に細胞分裂や増殖を繰り返しながらも、日本のポップス界に貴重な一石を投じた。
 
 1969年に結成されたエイプリルフールに対しては当時のミュージックライフ(1969年10月号)が「〜今まさに日本のGS界に〜」新星が登場したかのような記述をしたが、(*)明らかにそれは歌謡曲化するGSとは別の動きであった。
      (*)萩原健太 1983「はっぴえんど伝説」(八耀社)より
 
 エイプリルフールに在籍した細野晴臣、松本隆が大滝詠一、鈴木茂と結成した”はっぴいえんど”。。。この四人の全員が後年になって、歌謡曲の進化に多大な貢献をしたのは特筆すべきことである。
 
 はっぴいえんどの二枚目のアルバム、「風街ろまん」は「日本語をロックに乗せる試みに大きな貢献をした」ことになっている。確かに収録曲はベース指定コードの多用等、新しいサウンドを追求しているが、その日本語がきれいにメロディーに乗っているとは言い難い。後年の評論家がこのアルバムに対してステレオタイプな論じ方しかしないのは残念である。
 
 むしろ、このアルバムは日本的情緒の見直しによる日本のポップスの脱皮に成功していると言える。それまでの日本の歌が作詞も作・編曲も西洋的目新しさにより進化しようとしてきたことに対するアンチテーゼなのではないか。
 
 これは視点こそ違え、後年の椎名林檎の方向性と共通する。
***
この後、細野は鈴木茂、松任谷正隆、林立夫を誘って、キャラメルママを結成し、自らが表に出るというよりは新しい時代のポップス伴奏を作り出していく。
 
 細野は、後述する後藤次利(サディスティックミカバンド)と共に、地味な存在だった歌謡曲におけるベースという楽器の存在を大きな変えた。それまでは定型的な演奏を強いられた
歌謡曲におけるベースをドラムとの共同作業によるリズム作りというジャズ的手法によるアレンジに進化させたのである。
 
 1970年以降のヘッドアレンジでのスタジオ録音にはマスターリズムと呼ばれる譜面を使う。
ビッグバンドのような各パート全てが指定音符という形式ではなく、クイ(アンティシペーション)、ブレイク、リズムのキメ(セクションとよぶことも多い)以外のほとんどをミュージシャンのセンスに任せるのである。
(つづく)

 13    *レコードにおけるスタッフ表記の変化
更新日時:
2020/09/30
 
 それまで、歌謡曲と呼ばれる音楽のレコードのバックバンドは「ビクター・オーケストラ」などのレコード会社を冠とした楽団名が書かれているだけであったが、こうしたセッション風アレンジの登場を契機にバックニュージシャンの個人名をクレジットする例が現れ、ユーミンの1stアルバム「ひこうき雲」からすでに表記されている。シティ感覚の歌謡曲はニューミュージックと呼ばれるようになり、1980年代にはバックミュージシャン名表記があたりまえになって行く。
 
 また、チューリップの「君のために生まれかわろう」(東芝音楽工業、1972年)ではPRODUCED BY KAZUNAGA NITTAとして、担当プロデューサの名と共に、エンジニア、デザイナーの社員の名もジャケットに印刷された。おそらく業界で初めてのことだった。半年前の「魔法の赤い靴」(チューリップ)では社員の名をクレジットすることを上層部が認めず、スタッフが次のアルバムでこっそり明記したのだった。しかし、雑誌の世界では 社員スタッフの名を入れることなど常識であり、書籍では昔から著者が担当編集者に謝辞を述べるのが通例となっていた。
レコードの制作体制の近代化につながるエポックメイキングな出来事だったと言えよう。
(つづく)
 
 ・参考文献:2012年3月16日  付・朝日新聞be(土曜)版   (文:中島鉄郎)
 

 14    *新感覚のバッキング制作
更新日時:
2020/10/10
 
 
 1973年歌手デビューの荒井由実(現・松任谷由実)のLP「ひこうきぐも」、「ミスリム」(1974年)にはキャラメルママのメンバーがクレジットされている。これはキャラメルママが南正人、吉田美奈子に続いて歌手のバックを努めたLPで、当時としては画期的なセッション的雰囲気で録音されたレコードである。
プロデュースは村井邦彦であった。
彼は後にプロデューサとしてYMO(イエローマジック・オーケストラ)(1978年〜)も世に出し、まさに近代日本ポップスの産みの親である。
当時、歌手のバックと言えばジャズ畑出身のミュージシャンによるビッグバンド+クラシックを本業とするストリングス編成がほとんどであったのと違い、リズムセクションのみによるヘッドアレンジ感覚であった。
厭世観漂うユーミンの詞、それなのに決して暗くならないメージャー7thコードの多用、頻繁な転調を駆使するユーミンの曲メロディーづくり、その全てが新しかった。それまで、歌謡曲の間奏は歌メロを繰り返すのが、定番だったのが、このLPでは1コード(いわゆる一発)、または2小節単位2コードに乗ったアドリブ風フレーズが目立った。
当初の荒井由実のレコードはキャラメルママによる集団伴奏制作体制という感があったが、次第に松任谷正隆によるアレンジ及びサウンドプロデュースになっていく。
 
 
1973年歌手デビューの荒井由実(現・松任谷由実)のLP「ひこうきぐも」、「ミスリム」(1974年)にはキャラメルママのメンバーがクレジットされている。これはキャラメルママが南正人、吉田美奈子に続いて歌手のバックを努めたLPで、当時としては画期的なセッション的雰囲気で録音されたレコードである。
プロデュースは村井邦彦であった。
彼は後にプロデューサとしてYMO(イエローマジック・オーケストラ)(1978年〜)も世に出し、まさに近代日本ポップスの産みの親である。
当時、歌手のバックと言えばジャズ畑出身のミュージシャンによるビッグバンド+クラシックを本業とするストリングス編成がほとんどであったのと違い、リズムセクションのみによるヘッドアレンジ感覚であった。
厭世観漂うユーミンの詞、それなのに決して暗くならないメージャー7thコードの多用、頻繁な転調を駆使するユーミンの曲メロディーづくり、その全てが新しかった。それまで、歌謡曲の間奏は歌メロを繰り返すのが、定番だったのが、このLPでは1コード(いわゆる一発)、または2小節単位2コードに乗ったアドリブ風フレーズが目立った。
当初の荒井由実のレコードはキャラメルママによる集団伴奏制作体制という感があったが、次第に松任谷正隆によるアレンジ及びサウンドプロデュースになっていく。
 

 15    リズム楽器の音の変化
更新日時:
2020/10/13
 エレキベースのサウンドと役割がそれまでと大きく変化したのもこのころである。
単なるリズムキープからメロディックなフレーズを弾くのが当たり前になっていく。これはなんと、BEATLESの名曲"SOMETHING"(1969年)にその源流を見い出すことができる。そして次に音が変わったのがドラムである。ヤマハ・ポプコン出身の高木麻早・歌の"思い出が多すぎて"(1974年,萩田光雄編曲)でエコー(ここでは現代のリバーブとディレイを包含した概念とする)の効いたドラムの音を聴いて、私は驚愕したものである。その後、ドラムの音はシモンズの大流行(ピンクレディの頃)、スネアにゲートリバーブを経て、スコーンという乾いたサウンドが定番となった。
 
 
 エレキベースのサウンドと役割がそれまでと大きく変化したのもこのころである。
単なるリズムキープからメロディックなフレーズを弾くのが当たり前になっていく。これはなんと、BEATLESの名曲"SOMETHING"(1969年)にその源流を見い出すことができる。そして次に音が変わったのがドラムである。ヤマハ・ポプコン出身の高木麻早・歌の"思い出が多すぎて"(1974年,萩田光雄編曲)でエコー(ここでは現代のリバーブとディレイを包含した概念とする)の効いたドラムの音を聴いて、私は驚愕したものである。その後、ドラムの音はシモンズの大流行(ピンクレディの頃)、スネアにゲートリバーブを経て、スコーンという乾いたサウンドが定番となった。
 



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